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【休日ネタ】クラシックのコンサートに行って再確認する「生の音楽って良いもんだ」って感覚

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なんどかエントリーでも書いたことがあるのですが、不肖岩永、これでも実は大学の頃に大学のオーケストラでコントラバスを弾いてました。ただ元々楽器自体が大きいことや、ソロ楽器というよりはアンサンブルなりオーケストラなりの形のほうが弾く場が多く(というかコントラバスのソロってのは殆ど認知されていない風ではありますが)、また大学を出て新卒の状態から故郷を離れて一人暮らしを始めたことなどもあって、結局それきりコントラバス自体に触れることが殆ど無くなってしまいました。

一応エレキベースは今でも持っているのですが、純粋に楽器として考えると音域と調弦が同じなだけで事実上別の楽器と言えるくらい違いますから、やっぱりそれとは違う。もちろんどこかの市民オーケストラとかに入れば良いんですけどね・・・ なかなかね・・・好きなんですけどね・・・・

 

諸般の事情により時々ですが、それでもコンサートに出掛けるとリセット出来るキモチ

特に子供が生まれてからは微妙に足が遠のいていたのですが、それでも時々コンサートには出かけています。子供づれでも問題なさそうな所で言うと年に一度のラ・フォル・ジュルネに出掛けるのは恒例になっているのですが、特に上の息子が幼稚園の頃からバイオリンやってるとかってのもあるので、主催者が「子供は駄目よ」と言って無い限りは周囲に迷惑をお掛けすることは無い家族なのですが、夜だと出掛けること自体が諸々難しいとかあったりして、どうしても足が遠のいたりします。

もっとも、たとえば週末の昼間に少し軽い形で開かれるコンサートに出掛けることが出来ればこれはありがたい。ってことで時々色んな都合が合いそうなタイミングで出掛けることがあります。学生オーケストラですが自分でステージに上がった経験もありますし、もちろん客席ではプロやアマチュアを問わず何度も見て(聴いて?)います。ほんでもって当然CDなり何なりで音だけ聴く事もあるわけですが、その違いについては(あくまで主観の問題として)どれほど違うかってのも体で覚えています。ただ、ずっと生の音を聴かずにいると、どうも空間の広がり感が箱庭っぽく小さく固まってくる感覚があります。いや、正確に言うと何かをキッカケに「妙に小さく固まってるんじゃないか?」と気がつくんですね。

でもね、小さく固まっちゃだめなんですよね。

 

空間の広がりや空気感は体で感じるもの

ところで何でそんな事を考えたのかって?いや、あのですね、9月18日の日曜日、まさに久しぶりにクラシックのコンサートに行って来たんです。都合により息子と二人でしたが、横浜のみなとみらいホールでの読売日本交響楽団の演奏会。演目はモーツァルトの40番とベルリオーズの幻想交響曲。特に幻想については大学のオーケストラでの最後の定期演奏会で自分が弾いた事もあって、なんだか一人で曲に入り込めるという、まぁ非常に独りよがりの勝手な音楽体験に身を委ねておりました(笑)。

で、そういう勝手な思い入れはどうでもよいのですが、ここで言いたいのは実は先日の陸上自衛隊の総合火力演習でも実は同じことを感じた自分がいたということです。そこでの音に対する体験が、ひとつは自分の記憶の再確認であり、もうひとつは未知の臨場感や空気感の体験であったという違いはありますが、共通しているのは音や空気、皮膚が感じる感覚などを通じて実体感を得ている事です。

このあたりの考え方や感じ方は人それぞれですから何が良くて何が悪いとかは言いませんが、私の場合には音や空気を感じることが無いとどうにも実体感を記憶できないと言う事が往々にしてあります。もちろん世の中の全てを自分で体験することはできませんが、それでも、その記憶があるかどうかといのは自分が周囲の物事を理解する上では大きく作用するような気がしています。

因みに香りの記憶というのが人の感覚のなかで長く残る傾向があって、昔住んでいた場所の香りや良く食べた何かの香り、あるいは好きな人の香りをなどは、その香り自体を忘れていてもそれと同じような香りを嗅ぐと記憶自体が鮮明に蘇るという話を聞いたことがあります。確かにそれはありますが、(これはまた純粋に主観の問題ですが)私の場合には音や空気感でもそれが起きることがあるような気がします。本当かどうかって? いや、良く判りませんが、そんな事を感じる事はありますよ。純粋に個人的な感覚として。

 

そして生の音楽って良いもんだという話

生の楽器の演奏は良くて電気楽器がどうのとかそんな話ではをありません。ジャンルがどうのこうのという話でもありません。別にそれぞれの楽器やらなんやらがどんな形で音を出そうが、それはどうでもよいです。状況によっては「物置で弾いてもストラディバリウスはストラディバリウスなのだ」とか訳の判らん事を吠えたりする私ですが、そこに人がいて、そこでの演奏を聴きにきている自分を始めとする聴衆がいて、同じ空間でなってる音やその空気を共有しているというのが良いよな、と思うんです。それが私の言う、生の音楽。全部が全部カラオケだったり打ちこみだったりすると悲しいけれど、少なくともそこにそれを流しているアーティストがいて、その場を共有しようと来ている聴衆が居れば、多分根っこは同じでしょうね・・・ を私は思っています。

 

そういえばどうでもよい音の記憶

ところで、クラシック音楽がどうのこうのとか高尚な話をしていますが、実はいわゆるトランス系やユーロビート系のダンス音楽を聴くと、何故か東南アジアの或る大きな都市の夜の風景が浮かびます。色々大変だった時期にそこに仕事に出掛けていて、そこでの色々な経験がそういう音楽に集約されて記憶されているという言い訳じみた経緯と一緒に記憶にしまいこまれたある特定のジャンルの音楽。たとえばグスタフ・マーラーの交響曲と聴くと結果的に無賃乗車してしまった(いや、連結された後ろの車輛だったのでお金を払うタイミングがわからなかったんですけれど、という言い訳)20年前のウィーンの路面電車を思い出すのと基本的に変わらないのですが、まぁ、何と言いましょうか(笑)

何れにせよ、「音や空気感の記憶があれば感じる何か」というのは大事にしたいと思う休日の午後です。

 

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