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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

キュレーション、メタキュレーション、メタメタキュレーション、そしてその先

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乱暴に言うと本来は図書館、博物館、あるいは公文書館などで資料の研究や鑑定を行うという役割を持った人がキュレーター。当然そこで必要とされるのは担当分野に対する非常に高い知見、知識であるわけで、概念的には日本で言う学芸員に近いのですが、その役割や権限の範囲はそれよりも大きいのが特徴・・・ という話をご存知の方は多くいらっしゃるとは思います。

その「キュレーター」が佐々木俊尚氏の提唱した「キュレーション・ジャーナリズムとは何か」という一文をある意味突端として、情報の収拾整理をし解釈を加え広くそれらを共有してゆく立場をキュレーション・ジャーナリズムと称し、それを行う人をキュレーターと呼ぶという理解が生まれたわけですが、よくあるこういう役割の話としてどこかでなんだか訳が解らなくなって来ることがあります。確かに最初は情報の荒波から必要な情報、間違いない情報、正しい解釈を拾い上げるという非常に小さな役割と動きから始まるわけですが・・・

 

たとえばソーシャルな何かの世界で渦巻く色んな情報も最初はちいさな渦

情報は一次ソースにあたること!という大原則があります。途中の解釈が人手を介するたびにどうしても伝言ゲーム化し、なにかしら曲解され、誤解を含み、結果的に当初意図した内容とは違うものになってゆく事を完全に防ぐ事は不可能です。だから必ずそもそもの一次ソースは何?そこで何がどういう背景の元に語られているのか?というところをキチンと押さえるのが必要になるわけです。

もちろん情報の種類によってはそれが非常に困難であったり、あるいは到達できてもその分野に対する素人という立場では理解すら出来ないようなものであったりするのは普通にあるはずです。だから誰かがそれを翻訳し、正しい解釈を加えてくれる必要があるわけで、私的にはこの部分はいわゆるジャーナリズムの本質的な意味合いのひとつだと思っています。

もっともジャーナリズム全体として世の中のあらゆることに知見を持った何かというのは存在するわけありません。そこにいる専門家は本来は何かを誰かに伝えるプロであって、世の中のあらゆることを解釈する神のような存在ではないと思うんですね。むしろ、解釈できる人の多くが実はジャーナリズムの外にいたりするわけです。

で、それらの人たちを束ねる方法というのが過去には殆ど存在していなかったのですが、インターネット上で、たとえばSNSなり何なりという世界の上でそれが存在できるようになってきてるし、既にそのように動いている人たちがいるんだしというのが今の状況であるわけです。もちろんそこにはプロのジャーナリストもいればある業界や分野に対する高い知見を持った人もいるし、基本的には一般人なんだけれど実は有る分野に非常に詳しい人とかもいるわけです。そしてそれらの人たちが自分のアンテナに引っかかった情報をそれぞれの立場から広く知らしめるためのシステムが出来た事によって、今までとは違う量と質の情報を手に入れることが出来るようになった・・・訳ですが・・・

 

だんだん細分化されてくるとそれ自体を探すのが大変になるわけで

たとえば概説から各論に入り、更にその周辺の解説やら背景を構成する関連情報やらとドンドン観測範囲を広げてゆくと、当然ですがそれぞれはドンドン細分化されてきます。そうするとそれらの流れを別の観点から「わかりやすく」解説する何かが生まれ、更にそれらを含めた全体の流れを誰かがどこかで総括し・・・ 段々とその「何か」を取り巻く情報が出てくれば出てくるほど「メタ化」してくる気がします。

キュレーションからメタキュレーションの流れ。

更にはある事象なりモノなりの関連する情報との関連などが含まれてきて、でもそちらの本質は別の専門家が同じような事をやっていたりして、それらとの繋がりとかのために誰かが活動して・・・

キュレーションからメタキュレーション、そしてメタメタキュレーションの流れ。

そうするとやっぱり誰かがそれらを纏めてキチンとわかりやすく説明してくれないと判らないよという流れから、結局再び情報の大海となってしまった状況の中から何かを探し出す何かが現れてですね、と、なんだか禅問答っぽくなってきましたが、そういうサイクルがあるような気がしています。

乱暴に並べてしまうと例えば百科事典の時代、現代用語の基礎知識みたいなのの時代、そしてキュレーションの時代と、少なくとも役者は換わりましたが役割自体のニーズは昔から何も換わっていない気がします。ってことで、キュレーション・ジャーナリズムという考え方の基本的な部分それ自体を否定する考えは私自身には一切無いんですが、その先にはどうなってゆくのかなぁと言うところは気になります。

 

ただし、それがジャーナリズムと呼べるのかどうかと言うところには相変わらず懐疑的な立場を取っています

ジャーナリズムをどう解釈するかが問題ですが、内容に対してある一定の立場から一定の責任が担保されたうえで誰かに提供される情報の供給源であるという考え方がある場合、(例えば私もそうですが)どこの馬の骨だか判らん奴が「コレはこうなんですよ」と言っても非常に辛いところがあるわけです。勿論私自身にもそれなりに得意分野や非常に深い経験を重ねてきた分野がありますから、そこは間違いなく自信をもってお話しすることが出来ますが、層じゃない部分の方が当然ですが非常に大きいです。それは事実。

で、単純な部分で言うとジャーナリズムが利用する媒体が紙から電子情報に置き換わり、その伝達方法や蓄積能力、そしてあとからの参照の容易さなどといった部分では圧倒的に強くなったわけですが、伝達速度が速くなったとか途中の改変に対して実は耐性が低くなったというような問題もあるとは思っています。

因みに二次情報として流通する情報が、たとえソースを正しくポイントしていたとしても途中で経由する人の立場や立ち位置によって解釈が加わるような事は普通に起きますし、途中での改変は状況によっては非常に容易です。それやこれやで、状況によってはその情報自体が持っている信頼性そのものの問題となったりするんですが、じゃぁそれらの内容を完全に統制できるかというと、今の世の中、既にそれは非常に困難だといえると思います。

じゃぁ誰がそれに対する何らかの責任を担保するのか?できるのか?

私は、ここがキュレーション・ジャーナリズムがジャーナリズムと呼べるかどうかの境目じゃないかと思っています。逆に何ら担保をモタナイとすれば、Googleなどのインターネットサーチサイトで検索するのと何らかわらない。そこで出てくる情報は情報であって、その正確さとかを誰が担保するものでもないですが、少なくともインターネットサーチのエンジンがスキャンする事ができた情報のうち、一定のクライテリアで引っかかった情報にはそこで触れることが出来る。

 

ということで、情報に対する信頼性と言うところを少し掘り下げるとキュレーション・ジャーナリズムってどう変遷するんだろうというところに行き着くんですが

「キュレーション・ジャーナリズム」という言い方自体がそれほど長生きする事は無いと思っています。そもそもは一種の流行語なんで早晩廃れると思うんですが、本質的な動きとしては換わらず存在し続ける種類のモノだと思っています。つまり色んな人が自分の得意な分野の情報にアンテナを張っていて、それらについて何かしら言ったり書いたり喋ったりという行為。そして「キュレーション・ジャーナリズム」という言葉が現在表現しているものは他の色んなモノと同じ合従連衡の流れの中で、今のそういう状況に対して付けられたラベルであるという解釈をしています。

あくまでも私の解釈ですが。

因みに情報を一生懸命集めて広く共有しようという動き自体はとても素晴らしいとは思うのですが、得てして自分の一番得意かつある時点で一番よく判っている分野については色んな理由で全く触れることが出来ないというコトが起きます。それが職務上の守秘義務だったりする事も多かったりするんですが、その目から見て「それは誤解です」とか「それは曲解です」とか、果ては「そんなこと誰も言ってませんよ」みたいな”正しい解釈を加える”ことが出ることが無いかと言うと・・・ 

 

いや、それは難しい。無理です。ペンネームで「正しい目から見た解説」を書くライターやりたくなるくらいイライラすることもありますが、実際にはとても難しい。下手すると単なる暴露話になりそうで、更に難しい。

でもそれが情報の正しさの担保というところにぐるっと帰ってきたりするから面倒くさいんですけどねぇ。

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