分かったフリで気まずくなるのか。分からないと聞き続けて呆れられるのか。
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おはようございます。
久々の曇り空の朝。心なしか乾燥が和らいでいます。
===ほぼ毎朝エッセー===
分かっているフリをして、それがばれたときの気まずさ、誰でも体験したことがあると思います。
一方、あまりにも分からないと言い続けて、教える側に呆れられてしまうということもあります。だからある程度で、分かったフリをするのも必要なのでしょう。
分かったフリで気まずくなるのか。分からないと聞き続けて呆れられるのか。バランスが難しいわけです。
ところで、同じ分かったフリや、分からないと聞くことでも、それが相手に許容される境界線を変える手段もあるようです。その境界線が少し緩むとでもいうのでしょうか。
それは、その行為に魂がこもっているかという点です。魂を込めて理解しようとしているか。この姿勢が有るか無いかで大きく違いがでてきます。
魂を込めるときには、急がない。忙しくしない。じっくり受け手のことを考える。遅くやるのではなく、それをテキパキとスピーディーにもできます。一つのことに集中するのがコツでしょうか。
面白いもので、魂を込めた分、気持ちも伝わるようです。気持ちが伝われば、ある意味、思い通りになりやすい。
つまり、魂を込めるというのは、結局はもっとも効率的に自分のやりたいことを実現する方法なのかも知れません。まさに急がばまわれ、ですね。
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魂をこめる系は以前ブログに書きました。ご参考まで。
『魂を込めるってどういうことなのか考えてみた』
『「魂を込める」のと「気合を入れる」のとの違い』
『「魂がこもっているな」 vs.「手が抜かれているな」』
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