ゲームを愛する橋本大也さんからの反論 was「ゲームにハマる理由を実体験してみた」
「なにか違う。。。 やはり違いますよ、坂本さん!」
橋本大也さんから突如Facebookにコメントが入りました。
橋本さんとは開業時期が近かったこともあり、
オフィスをシェアリングしていたこともあります。
私の今朝のエントリーを読んでのことです。
私「何が違うのでしょう??」
橋「違う箇所が複数あってどこから論じるべきかというかんじなのですが。
1 お酒を飲めない人(好きではない人)がお酒を論じようとして無理やり
的外れな分析をひねりだしている。実社会で役立つという評価軸の設定
がまずゲーマーの考え方ではない。
2 ゲームは多様であり品質も様々。坂本さんが遊んでいるこのゲームが、
坂本さんにとって、ゲーム全般を分析するのに最適なものか甚だ疑わしい。
3 ゲームは映画や音楽と同じと考えることができるはず、ある意味では実
社会の役には立たない
4 ゲーマーの気持ちになったというには遊んだ時間が少なすぎる。
ゲームの面白さ全般を理解するには、数千時間は必要。
(それを受け取る感受性も必要)
5 このゲームを遊ぶ動機が不純であり、当初より結論は見えていた、質の
悪い分析実験であると思われる。好きではじめたゲームじゃないでしょう。」
橋「などなんですが、分析しないとわからんという時点でゲーマーじゃない
という根本的な問題があるのではと思います。
とここまで書いて坂本さんの元記事を読み返してみたのですが、
”ゲーム全般”を断じるにはやはりこれでは材料不足で、このカジュアル
ゲームについての評価としてという話であれば、そうかなあと思う次第です。」
橋本さんからのコメントはまだ続きます。
橋「最近のソーシャルゲーム、カジュアルゲームは確かに人間の弱さに突っ込んで
いる感じがありますが、本来のよいゲームは人間の弱さにつけこむのではなく、
ゲーム自体に物語的な、あるいはアート的な魅力があるから人をひきつけて
いるのだと思います。
そもそも「『パパ、ゲームに夢中になって家族と話さない小学生みたい…』娘に
気の毒そうに言われました。」というような偏った価値観がインストールされて
いる環境では、ゲームの面白さを知ることは、絶対に無理だと思います。」
そこで折角いただいた貴重な分析、もったいないと思ったので聞いてみました。
私「後ほどブログに載せていいですか?
ゲームが映画と同じという感覚が面白いと思いました!」
するとすぐに返事がきます。
橋「アツくなりすぎました。すみませんw ブログ掲載いいですよ!」
橋「私はデジハリ教員なのでゲーム偏向バイアスがかかっている、かもしれませんが。
私のゲーム愛は坂本さんも昔からご存知と思いますが。。。夜な夜なオフィスで
ゲームをやっていた十数年前。
ちなみに我が家では全員が各自の携帯ゲーム機やスマホを黙って見ている団欒が
よくあります。悪いとはまったく思っていません。ゲームを通じて
コミュニケーションをする、感動を共有する、ゲームから学ぶ、時空を超えて人と
つながる。問題は家族が黙っていることではなく、沈黙の中身、時間の質ですよ。
ゲームに夢中になって話さない=映画に夢中になって=音楽に夢中になって
同じです。むしろ大切なのは夢中になること。そこから始まる世界の深い理解や、
他者とのつながり、共感体験などが広がることも同じだと思っています。
質の悪いゲームと質の良いゲームがあることも。
家族でいい映画を黙ってみて、感動していながら、時間を浪費したなんていいません。
暇つぶしととらえるか心の糧ととらえるか、向き合い方によりますし、
対象にもよります。」
続きました。橋本さんの熱い持論。返答します。
私「アツいww
ゲームが心の糧になる? (((・・;) 新境地」
するとすぐ様に返事が。
橋「音楽や映画や読書程度には。」
そういうことです。ゲームが音楽や映画や本などと同列であると。
そういうジャンルにハマると。
橋「たとえそれが経済価値や社会価値を生み出さなくとも、
楽しい時間=人生価値そのものであると真のゲーマー(笑)は考えております。」
と、ゲームを愛する真のゲーマーからの熱いコメントでした。
確かに「映画とゲームの違いが何か」と言われたら参加型か一方的か。
あるいは参加している分ゲームの方に能動性があるということかも知れません。
せっかくの違う考え方。
大切なことに遭遇したような気がするのでシェアさせてもらいます。
ありがとうございました。