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ビジネスモバイルITベンチャー実録【朝メール】から抜粋します

東洋大学連覇、なぜ出身校を応援したくなる?

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★箱根駅伝は東洋大学の2連覇に終わりました。すごいですよね。おめでとうございます。優勝候補だった早稲田大学は今年も奮いませんでした。。

★ところでなぜ、自分の出身校を応援したくなるのでしょうか。それについて記述したことがあります。

【朝メール】20080813より__

===ほぼ毎朝エッセー===

□□個の優秀性を肯定する

「自国や同郷の人が勝つと素直に喜ぶのは何故だろうか」

ふと、このような疑問がわいてきました。同じ国の人が活躍すると嬉しい。同じ出身地のチームが勝つと嬉しい。同じ国、同じ故郷、同じ地域、同じ苗字、同じ学校、同じ会社、同じ宗教、同じ性、同じ家族、同じ親戚、などなど、少しでも身近な人の活躍はとても嬉しく感じます。

昨日は、ソフトバンクの人に言われました。
「CACHATTOの競合製品を売っている人たちが最近よく口にするんです。『CACHATTOさんの管理画面はすごいです。うちもあそこまではいかないんですけど…』  といいながら説明しているんですよ。」

CACHATTOが誉められると自分も反射的に嬉しく感じてしまったのです。自分という個が関わっている製品が誉められ、それは間接的には自分たちの何らかの優秀性が誉められたという図式で解釈しているからです。自分も全くその図式にはまっています。

どうやら、人には自分という個の優秀性が証明されることに、避けがたい渇望があるようです。意識するとしないとに関わらず、その渇望を満たす方法や 理屈を絶えず考えています。単純には自分そのものが誉められれば嬉しいし、複雑には自分の影響が届くと思っている人やチームやモノの成功がそれを代弁したりします。

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一方、その「同じ」が少しずれたりしているとややこしいです。「同じ」学校でもその人が対抗馬のグループに所属していたなどとすれば、それは逆に応援するどころか厳しい目で批判したりします。「同じ」地方でもその地域が対抗心を持っていたりするとコケおろししたりします。兄弟喧嘩なんかも身近な例でしょう。

似ているもの同士の方がいがみ合います。紛争の発生する確率は同質性が高い部分の間でのものが多いです。「同じ」国民だけど宗教が違うといがみ合って国を分けてしまったり、「同じ」宗教だけど宗派が違うと違いを強調したりしています。「ちょっと遠くから見れば「同じ」なのにな」と思うことはよくありますよね。

西洋人からは「中国人と韓国人と日本人は見分けがつかない」と言われて面白い気持ちがしないこともありますが、東洋人からすれば、オランダ人とドイツ人とイギリス人とスウェーデン人の違いが当てられる人がどれくらいいるでしょうか。

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似ている中での違いをあえて強調して、その間で競い合いをする、悪化すると争い合いになる、それがスポーツなり紛争なりの原型なのです。それは自分という個の肯定とか否定につながるものであるから余計に本気になりやすいものなのでしょう。

オリンピックで日本選手が金メダルを取った、高校野球で同郷の学校が勝ち進んでいる、甥が草野球で大活躍した、そういったことがストレートに嬉しいのは、個の優秀性が肯定されたという気持ちになるわけだからですね。ワールドカップしかり、プロ野球しかり、あえて地域性を前面に打ち出したりしています。見る側がそれを求めるからです。そのほうが応援にも身が入るからです。

誉めるということにはパワーがあります。個の優秀性をきっちりと認め合う、誉めあう、そういうことが人間は、活動の原動力に必要なのでしょう。さらには、その人の属しているもの、信じてあろうでいるもの、それを誉めるというのにも同じほどの効果があるということになります。

★遠慮なく誉めて誉められて生きて行きたいものだと、その個人だけでなく、その人の属している集団やら象徴やら、そういうところで共感ができるところを強調する、そんなことを思った正月3日目でした。明日から仕事です!

★東洋大学立派!

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