優先と所有の意識が発する嫌な匂い
【朝メール】20050621より__
□□ First-come, first-served
現代社会の根底に流れるおおきな見えないルールがあります。
「先に並んでいるんだから先にレジに進む。」
「先に診察カード出したんだから先に診察を受けられるのさ。」
「渋滞の合流は一台一台交互に行くのがいいねぇ。」
街中でよくみかける行動です。当然のルールです。当人はほぼ無意識に行動しているのではないでしょうか。
「先から座っているんだからこの席は自分のだ。俺も疲れているんだ、譲らんよ。」
電車で腕を組んで寝ているふりをしている人の頭の中にある概念です。
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「This seat is taken 」
映画フォレストガンプでのシーン、子供たちが新たに乗ってきた子供にこう言ってバスの席を譲らなかった場面を思い出します。
当然のことながら生まれた順番も大切です。
「あんた長男なんだから家業を継ぎなさいよ。」
「先に生まれたんだから自分の方が偉いのさぁ。」
儒教文化に根強く残る概念ですね。さらにこの意識は土地や国境の話までになります。
「この境界を侵害しているとは何事だ!」
「先に住んでいたんだからここは自国の地だ。」
北方領土や竹島の争いごとの根拠はここに根付いています。
こんな『優先』意識があります。文字通り、先が優れているという概念です。
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さて、動物の世界を見ていると、後から来た大きな個体が、体のサイズを根拠とした力づくで、先にいた者の物を取り上げてしまう、こんなことがよくあります。人間は賢いのだから、一人一人の権利は同じなのだから、そして何よりも根本的には争いごとを好まないのだから、先にいた方が権利を持つ、こんな合理的ルールが発生し始めたのでしょう。平等主義の知恵ですね。英語でもFirst-come, first-served といいます。あまりに一般化しているために、普段はこういった根底のルールを意識すらしません。ところが時折、この『優先』について危険なにおいを感じます。あまりに『優先』が行動の骨身に染み付いてしまっていて、それがルールを越えてしまうことがあります。
『優先』は『所有』という概念と合体しやすいようです。『優先』によって得た権利を自分の『所有』物として思い込んでしまっていることがよくあります。そんなときにこの、危険なにおいが増大するのです。そういった場面に出くわすと、胸の中で嫌な苦汁が発生するようななんとも嫌な感覚に襲われます。同様に街中でふと、自分がそういったにおいを発信していることに気づかされて、苦笑いすることがあります。
所変われば文化も変わる、年功序列の儒教の精神論が全く存在しない場所もあります。「年を取っているほうが先の可能性が少ないので恥ずかしい。」こんな異文化に面したときには軽いカルチャーショックを覚えます。同様にきっと『所有』するという概念の薄い文化もあるのだと思います。そもそも、この地球の空気とか場所とかに『所有』という人間の概念を持ち込んでいいものかという疑問も残ります。人間とか社会が熟成してくると、この『所有』の概念が希薄になってくるようにも感じています。
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ところでだいぶ前、テレビで見たことがあります。フランスのプロバンス地方で細道で対向車同士が出くわしたときにどうするか?
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答えは、最初に後続車が来た方がまっすぐに行く優先権を持つというものでした。だから後続車がくるまでじっくりと待つのです。後続車が来なかった方は、すごすごとバックするのです。
なんだかのんびりしていていいですね。
「『優先』による『所有』意識を振りかざしていないか?」
こんなことを自問自答して通勤した朝でした。