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駄文を垂れ流すこと、あるいはOPINIONの持ち方

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さっき社内Slackの珈琲好きチャンネルに「珈琲の美味さを決める要因ベスト6」みたいな文章を投稿した。全く役に立たない駄文である。
僕自身は珈琲の専門家でもなんでもない。それどころか「自分でなぜ珈琲を飲むのか分からない。うまいとは思うが、その美味さは一体なんなのか、全く言語化できない」と先日飲みながら話したばかりなのだ。テイスティングみたいなことにも自信がない。

でも美味さを左右する要因について、一応素人なりの仮説は持っている。そしてそういう「もやもやした考え」は何であれ、折に触れて体外に排出しておきたい。気持ち悪いから。朝起きたらトイレに行くのと同じだ。


松任谷由実は受賞後のスピーチで「才能は母乳と一緒で、出さないと体に悪いといいますから」と語った。
僕の場合は残念ながらそんなにかっこよくはない。母乳のように価値があるものばかり出せる訳ではない。つまり僕にとって文章を書くこととは、「排泄」なのだ。(以下、排泄と書くとあまりにアレなので、排出に全置換しました)


排出なので、アウトプットの内容や品質はあまりコントロールできない。
流石にこのブログへの排出は、仕事にまつわることだけにフィルターしているからそう見えないかもしれないけど。

※例外として、たまに自転車系の排出をブログに載せることがある。例えばこれ。
数回輪行した人向け輪行テクニック集、あるいは僕がSL-100を愛する訳
これは(よく言えば)ノウハウを言語化する訓練として書いたのだが、まあ実態としては、電車に乗っているときに暇だったから排出しただけだ。


Facebookにはそれ以外も垂れ流す。
自分で気に入っている文章のリンクを貼ろうと思ったが、ちょっと内容がアレなので、気になる人は「白川克 価値創造」とかでFacebook上で検索してみてください。もちろん役に立たない駄文です。
(Facebookの友達申請は、面識がない方でも詐欺っぽくなければ受け付けています)

社内Slackに「人生で巡り合った50冊」という、読書感想文に見せかけた自分語りのエッセイを投稿していたこともある。


ということで、排出は排出でしかないのだが、仕事につながっていないこともない。それは「OPINIONを持つ訓練」だ。

ウチの会社の行動規範にも「OPINION」を掲げている。

OPINION
自分の意志と意見をもって表明するのが重要だ。
本来どうあるべきか?もっと良くするにはどうすればいいのか?を常に真剣に考える続けるべきだ。知的労働において、個人の意志こそが価値を生むのである。

わざわざ掲げているのは、普通の日本人は強く意識しないとこれが極めて苦手だからでもある。

これについては、外国人に指摘されたことが2回ある。
1回はパブで飲んでいた時。「日本人はあまり意見を言わないよね。僕らブラジル人は、例えばあそこに飾ってあるワインのボトルを見てどう思うか?みたいな些細なことですら、口に出して意見を言い合うんだ」
なるほどねぇ。それは流石に話さないな。でも彼ら楽しそうだな。

もう1回は英会話学校の先生から。「君はOPINIONがあっていいね。他の生徒は、英語を習いたいと言いながら、特に伝えたいことがないようなんだ。何のために英語を習うのだろうか?」
もちろん英会話学校の先生が相手だから、僕だって大したOPINIONを披露していた訳ではない(だからこれを言われたときに、かなりびっくりした)。でも多くの日本人はそれ以下だと。
だから、(珈琲の例みたいに)高尚でなくとも、なんであれ自分なりの意見を持って、排出し続けるのはとても重要なのかもしれない。


多くの人は「OPINIONがある⇒それを排出する」という理屈だと思っているので、OPINIONがなければ排出できない、と考えるかもしれない。
でもそうではない。
OPINIONを持つことと、それを排出することは、ニワトリとタマゴ的な循環関係になっている。
排出し続ける習慣があると、次のOPINIONを持ちやすい。松任谷由実風に言えば、母乳をだせば次の母乳が作られる。

残念ながら、排出の内容は選べない。今だって本当は本を書こうと思っていたのに、このブログを排出している。やれやれ。でも内容よりも、とにかく出し続けることが大事なのだ。ある程度真剣に仕事に取り組んでいる人であれば、排出物のなかに、仕事についての貴重なOPINIONも混ざっていることだろう。僕はそうやってお客さんのプロジェクトを成功に導いたり、自分の会社をステキな場にしてきた。

逆のことも言える。
以前、人生最悪レベルで仕事にハマっていたことがある。この時はこのサイクルが止まってしまい、駄文すら排出を全くしなかった。同時に、仕事に関しても何のOPINIONも出なかった。つまり仕事のクオリティも著しく下がっていた。生ける屍だ。
これでは知的労働をしているとは言えない。
皆さん、そうなってませんか。

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