知的労働量の限界、あるいは電池切れについて
知的労働に勤しんでいる皆さん、1日何時間働いていますか?
僕は8時間くらいだと思う。長くはない。30代前半までは13時間くらい働くのが普通だった。
意図的に短くしている。なぜかというと、「本当に頭を使う仕事は6時間以上できないのでは?」と思い始めたからだ。
きっかけその1)
本を書くときは、温泉宿に籠もって書くことが多い。
というといっぱしの文豪気取りに聞こえるかもしれないが、逆だ。本当にプロの作家ならば日常として淡々と執筆する。僕にとって執筆は本業ではないからこそ、モードを変えて人参をぶら下げらないと、自分にキックが入れられないのだ。
で、そういう時は執筆⇒温泉⇒執筆⇒温泉⇒昼飯⇒執筆⇒温泉、みたいな感じになる。せっかく泊りがけで来ているのだからさぞかし長時間書きまくるのかと、自分でも期待して臨む。
でも、どんな時も6時間しか書けない。むしろ調子がよく、集中できた時こそ6時間が限界になる。逆に少しダラッとしてしまった時は、取り戻すためにも7,8時間やることになる。
執筆する上での限界って、どんな感じかイメージつきますか?
僕の場合は、「書くべきことが全く思い浮かばない、空白が訪れる」という感じだ。
普段は、「あれを書こうコレを書こう」とアイディアが勝手に湧いてくるし、文章を書いている時も、ほとんど考えずに勝手に手が動く(例えば今もそうだ)。
だが空白が訪れると、何も出てこない。文字通り「枯渇」という感じ。
これが毎回きっかり6時間で訪れる。
これって、僕だけのことなのだろうか?
多分そうではない。
きっかけその2)
僕らはお客さんとよくまる1日のミーティングを開催する。「集中討議」とか「合宿」と呼んでいる。
・経営方針
・タレントマネジメントの進むべき方向
・プロジェクトのゴールやコンセプト
みたいなことを集中的に、深く、議論する場だ。
こういう切り口で議論するのはしんどい。普段仕事していても、こんなに抽象度の高いテーマには、ほとんど向き合わないのではないだろうか。
しかも僕らがファシリテーションするので、異様に濃い会議になる。ずっと考え続けることを求められる。これまた、めったに経験しないはずだ。
結果としてどんな方でも、6時間くらいで電池切れみたいになる。
合宿だからと張り切って、朝から晩まで会議を予定したとしても、15時か16時頃に場が死んでいく。ファシリテーションしているとはっきりわかる。
それはそれほど悪いことではない。真剣にテーマに向き合ってくださったのだから。
ということで、「本当に」頭を使うのは、1日6時間が限界なのでは?という仮説を持っている(一部の化け物みたいな人を除く)。
でも僕を含めて、形としては1日7,8時間とか、人によっては10時間とか働いていますよね?これってなんなんだろう?
僕が思うに、そういう10時間の半分以上は知的労働ではない、ということだと思う。
・客先に移動している時間
・会議で誰かが興味のないことを話している時間
・それに対して関心ありそうに頷いている時間
・パワーポイントのお絵かきをしている時間
などなど。
例えば最後のパワーポイント。
「資料作り」って、知的労働っぽいじゃないですか。でも「本当に」頭を使っているのは、この資料で伝えたいメッセージを考えるとか、その前の分析である。
それに対して、パワーポイントで四角や○のオブジェクトを矢印で結んだりするのに、さほど頭は使っていない。こんなことをやっているだけなら、僕だって12時間くらい働ける(まあ、飽きちゃうからやっぱり働けない気もする)。
例えば2番目、3番目の会議。
僕は社員の相談にのる形の会議が多い。これは疲れる。
・何が問題なのか?
・それに対してどうするべきなのか?
・どうすれば、相談してくれている社員が自主的に解決に向けたアクションを打てるのか?
などを全力で考え「続ける」必要があるから。
在宅勤務になってから、こういう疲れる会議が隙間なくびっしり詰め込まれることになった。はっきり労働密度が上がったのを感じる。客先から別の客先への移動って面倒だと思っていたけど、あれがあってこその12時間労働だったのだろう。
この密度でとても12時間はできない。
ということで、脳みそをフル回転させる仕事をしている人ほど、「真の労働時間」は短くならざるを得ない。
逆に「俺は何時間でも働ける」という方は、本当に脳みそを使う仕事なのか、振り返ったほうがいいのかもしれない。