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2010年12月2日 » |
色んな御意見はあるとは思いますが、とりあえずフィルムカメラは絶滅危惧種となり、カメラ屋さんの店頭にはPCが並んで自分でプリントするカットを選ぶ時代。そもそも、カメラ屋さんの店頭に並ぶカメラの数の激減具合が市場の動向を一番示している気がします。
そう。既にカメラはカメラ屋ではなく電器屋で買う時代。もちろん非常に趣味性の高いカメラの世界は厳然と残っているわけですが、いろんな事を言われつつも手軽に写真(あるいは動画)を撮る事が出来る世の中ってのは、良い悪いという以前に既に目の前にあるわけですが・・・
「気軽に移れるコンパクトカメラの世界と、一度入り込むとメーカーを変えにくい一眼レフの世界」という構図自体には変化は無いわけですが
既に家電製品と言う位置づけが非常に強い一般的なデジタルカメラ。コンパクトデジカメからプロ用の一眼レフまで非常に種類も数も多いわけですが、前から言われているようにカメラの世界ってプロが使っているのと基本的に同じ機材を素人も使う事ができる、非常に珍しい分野だったりするわけです。
もっとも、いきなりプロの報道カメラマンが使っているカメラは重いとか操作が細かすぎて難しいとか色々ありますから、実際に自分のモノとして使う場合に初心者が持つのは大変ですが、物理的には不可能ではないわけです・・・
って極端な話はさておき、とりあえずメーカーやら売価やら画素数やら自分思う使い方やらといった条件をそれなりに考えてカメラを持つわけです。で、最近のカメラの凄いのが、とりあえずカメラ任せにしちゃえばとりえあず撮れちゃうわけで、笑顔を待ってくれたり、何カットかシャッターの前後で勝手に撮って合成しちゃうなんてあたりまでくると、自分の行為として写真を撮ってるのかどうなのか、私なんぞには既によく判りません。
ただ、有る意味複雑になればなるほど、そのあたりの動きをキチンと理解し、かつ自分の使いたい機能なのかどうなのかってのをチャンと理解していないと・・・と思うのが老婆心。実際のところ、そんな機能使わないんならもっと安いのとか選べるでしょ?とか思うのも更に余計な老婆心なのですが、それがたとえば型落ちで最新の廉価モデルより安かったりしたら普通に買ってしまうよね、とか思ったり。
でも、だからこそ出る「絵」の出来の違い
たとえば私の場合、とりあえず「一応写真は趣味です」みたいなことを言ってる手前、カメラのモード設定で自分の思うような絵になるような設定で撮るのが基本になっています。絵のテイストで言うと、コダックのプロフェッショナル ポートラ フィルム NCシリーズっていうフィルムの、全くもって派手さの無い発色が好きなので、大体その方向に寄せてたりします。(って、知らん人にはさっぱりわからんですよね(笑))
そのあたりの調整が出来る事ってのが実は私がカメラに期待する調整機能だったりするので、メインで使う機材ってのはある程度決まってくるんですが、そんな私もコンパクトデジカメの場合にはそのカメラなりの写りを選ぶしかなくなるのが殆ど。そうすると、カメラの個性や設計思想がそもそもどうなの?って話になるわけで・・・
なんて非常に趣味性の高い話を書くと、後が怖いんですが(笑)
先日、何人かで分担してあるイベントの写真を撮りました。で、それを集めて報告みたいなのが出来上がったときの写真の色の具合で、誰が撮ったかとてもよく判るよね、っていうケースに最近出会いました。
もちろん構図の決め方や焦点距離のとり方、フラッシュを使う使わないなどを含めて全部が個性の塊だし、そもそも写真のプロとして携わったわけでは有りませんから、そこに正解も何も有りません。
ってことで別にどれが良い悪いって話ではなく、そんなモンなんですが、流れてゆく時間を切り取る「写真を撮る」と言う行為は、機材がどうであれ、それを選ぶところや使い方でチャンと個性が出るもんだよね、と思った次第。
別に自分がグローバル化の先陣を切っていたとは思いません。ただ、1980年代半ばから2003年くらいまで米国資本の企業に勤めていたことによって経験出来たことは間違いなくありますし、そこに居ないと経験出来なかった事があるのもの事実です。
ただ、たとえばおなじ時期やその前後まで含めて、そんな企業じゃないからこそ出来る色んな経験があるのは事実で、それ自体はたとえば米国資本の企業に居ては経験出来なかった事であるはずです。
じゃぁ、そういった経験を踏まえて、たとえば私と同じ世代の人が、私より少し前の人が何かしら評価を受け、そして後輩たちがそういったモノを引きついで、彼らなりの時代と役割を持って色んな人と対峙してる…のかどうかは良く判りません。
でも、なんだか、今は昔とすこしニュアンスの方向感が違う気がするんです。いや、別に海外経験があるからエライって話ではないし、無いからアホやという話でも無いんですけどね。
留学経験ゼロ、(たとえば3か月以上と言った)長期の海外出張ゼロ。だけど、誰かと話を付けてこいと言われたらやりますよ。誰かに話しをして来いと言われたらやりますよ。
何故かどうしてか、英語が全然話せないにも関わらず不思議に自信を持っていた20代の頃の私。まぁ実際のところ「トイレはどこですか?」くらいの受け答えはできる程度の英語力はありましたが、たとえば10分のBriefingを乗り越えることができるか?その頃は無理でしたね。じゃぁ今なら?お題が自分の理解してる事ならどうでも、どうにでもしますよ。
で、実際にその場しのぎかどうかは別にして、どんな場でもどうにかしてきたのが私のつたない社会人経験ですが、そんな流れの中でたまたま同期の人間と海外に行った昔の話。たとえば30歳直前の頃。何故か知り合いのうちの何人かが相次いで海外に出張にばんばん行き始めていて、色んな形でみんな苦労しながら何とかやっていました。
「でもさ、30歳前後って、なんだかそんな時期なのかな?」
そんな事を話した記憶があります。別にグローバル化とかそんなことは特に考えていませんでしたが、なんだか国外に向けた、あるいは国外と繋がるような話が回ってくるときには回ってくるんだよね、みたいな話。そしてそんな時代。単純に仕事の相手や場が海外だったから行ってただけの話。
ちなみに私が頻繁に海外に仕事で行っていたのは1980年代後半から1990年代半ばの時期。
日経の記事にあった「海外経験は評価しないし、若者は内向きになるし」系の記事を見て
別に全ては流れてゆくわけで、単純にそれが良い悪いという話では無いとは思います。そもそも私自身は別にグローバリゼーションを体現している訳でもないし、そもそもそうであればまずそもそもこんなエントリーをココで書いてたりはしないでしょうね(笑)
ただ、流れがグローバル化を求めていると言われていながら、それをあくまで他人事として眺めているってどうなんだろうってのは思います。
「消えるグローバル人材 語らぬトップ、内向く若者」
なんだよこの見出しは? って思う部分と、そうだよねって思う部分。いや、判る気はします。いや、別に海外経験自体が評価される必要ってのは無いとは思います。それこそ昔と違って、別に特別視される必要もひょっとしたら無くて、単に海外と話ができるって、それだけの話かもしれません。
いや、実際に日本語で日本国内で全く仕事ができないけど海外となら何とかなるって人も何人かあったことがありますし。
まぁ、それは人それぞれ。
でも、そんな事を踏まえるとですね…
なんだか日本はもっと海外に門戸を開けとか、もっとグローバルに展開しなきゃとか言われてる訳ですが、でもね、グローバリゼーションって、どうもそんなところの随分前で立ち止まってる部分があるような気がしてですね…
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