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いまさらながらですが、セミナーの集客関係の話。どんなセミナーでも、どうしても都合で途中で帰ってしまう人が居ます。私もそうすることがありますし、夫々に事情はあるのですが、セミナーを組み立てる段階で当然ストーリーがあるわけですし、やっぱり途中で帰るお客様が居ると残念な気持ちになります。
セミナーはLPのアルバムである論
CD以前、LPの世界では音はシーケンシャルにしか出てきません。もちろん曲と曲の途中に針を落とせるわけですが、基本的には頭から最後まで、A面からB面への構成というのがあるわけです。アルバム全体の構成をきちんと考える場合、一曲目から最後の曲までのストーリーがあって、夫々のメッセージがあって、全体で何を伝えたいのかがアルバムタイトルになったりする世界がありました。クラシックの交響曲なんてのはその際たるもので、全部の楽章を通して伝えたい作曲家のメッセージがあるわけです。とりあえずポピュラー系で自分の好きなところをほんのいくつか書くと・・・ 旧いものばかりですが・・・
ELTON JOHN / Captain Fantastic
YES / Topographic Oceans やFragile
Queen / A Night at the Opera
アルバム全体に思想があったのがLPのアルバムの良いところだと思っています。逆に言うと、単にヒット曲だけを集めたオムニバス版ってのがあったわけで、基本的には全体のストーリがあるから「アルバム」。
現在も主流の、基本的なセミナー構成はこれにあたると思います。
CDが出てきて違う世界が出てきた
CDが出てくると曲をすっ飛ばすのが楽になったので、なんだかアルバム全体のストーリーが希薄になってきます。もちろん今でも全体を眺めて・・・という物もありますが、曲順にあまり意味がないモノが増えた気がします。
トラックごとにセミナーの申し込みを受ける形が近いのかな?違うかな?
リッピング全盛の今は音楽もセミナーも、ストーリーも何も無いブツギリ素材状態?
聞く側が勝手に曲順も何も関係なく聞いてしまう今、「アルバム」という意味が全く変わってしまった論はよく言われる話です。以前のアルバムは本だったのですが、もう全部のページを適当に切り取れる週刊誌状態。前と次は何の関係も無く、夫々で完結。まぁそれはそれでよいのですが、作り手側が全体を通してのストーリーを考えなくなってしまっているので、全体としてのメッセージは希薄で、仮にひとつのテーマがあっても夫々独立できてしてしまうカタチ。むしろ最初からバラバラで素材として扱われることが前提になったりします。
個別のセッションごとに参加申し込みを受ける形は、これに当たると思います。
最後まで残ってもらう必要があるなら、どうする?
やはり企画する側、話す側として、もし最後まで残ってもらったほうが良いと思っているのなら、アナクロ(アナログではありません)であってもセミナー全体で一発の申し込みにし、中身の勝負プラス残ってもらうための運営上あるいは演出上の仕組みを考える必要があるのは、多分変わらないんだとは思っています。
もちろん、状況によってトラックごと、あるいはセッションごとのブツギリでもアリなのですが、なんだか企画する側の主体性が薄い気がします。ケースバイケースなのは百も承知ですが。
因みに景品で釣るのは(ある意味禁じ手ですが)アリはアリかと
今回の出張は同じテーマで三つのセミナーを三つの国で行うと言うもの。運営は基本的に現地だし、集客も基本的には現地の問題。当然夫々の個性が出るわけで、オープニングには大量に動員するけれど、休憩のたびに人が減るところもあれば、最後まで人が残っているものもありました。もちろん夫々経緯と理由があるから抜けるのですが、その理由を上回る別の理由があれば残ると言うことで・・・ ある国では事実上スタンプラリーが非常に効いてました。
で、何をした?いや、邪道ですが(笑
簡単です。最後まで残った人を対象にくじ引きして、カバンとかの景品をあげるという運営。確かに日本でもやったことがありますが、今回も全く同じことをやった国がありました。見事に最後まで殆ど全員がいました(笑
実際には個々のセッションが結構面白くて、最後まで聞いてて非常にタメになる構成になっていましたから、大多数が残っていたという印象はあります。日本で言うと都内のお客様に対して幕張でセミナーを開くといった微妙に遠いところへの拉致監禁効果はあったりしたのは事実。もちろんくじ引きがあるからという人もそれなりに居たとは思いますが、別にそればかりではなかったとは思います。
正直、釣るネタはネタでしかなくて、コンテンツと全体のメッセージが大事。餌をネタに残ってもらうより少なくてもいいから話を聞きたい人が残ってくれるのが一番なのですが、まぁ演出というか運営のひとつの方法として、それが効くときにはやってしまえば良いんだよなと改めて認識した次第です。
海外に出向いたとき、それも仕事であれば大抵朝食はホテルで取ることになると思います。割と日本人がよく利用するところであれば、バイキングコーナーの端に味噌汁のポットが置いてあることが多いと思います。日本とは何か微妙に違う味噌汁。いや、いろんな思いをめぐらせながらいただける、楽しいメニューです。
味噌汁になりきれない味噌汁
これが一番多いような気がします。雰囲気は味噌汁なのですが、出汁が薄く味噌も少ない。この段階の場合、醤油でもあれば小匙半分くらい入れてなんとなく味噌汁っぽくすることが出来ます。稀に鰹節が近くにある場合にはお椀の半分くらい入れてしまう。こうするとどうにか許せる段階まで行きます。
これはある意味標準かもしれません。
稀に出会うまじめな味噌汁
ごく稀ですが、まともな味噌汁に出会うことがあります。おそらく出汁入り味噌を所定の量使っていると言うことなんでしょうね。ただ量を使う=それだけコストがかかるわけで、その意味では稀にしか出会うことがありません。でも幸せなことに過去に数回出会ったことはあります。
それだけでその日の幸運を全て使い切った気がします。
味噌汁とは違う何か
時々あります。味噌汁とは違う何か。ポットの前には「MISO SOUP」と書いてあったりしますが、何かが根本的に違う。この場合にはとりあえず新しいスープに出会ったと思っていただくしかありません。過去で一番凄かったのが、味噌の存在をかすかにしか感じることが出来ないものがありました。これは凄かった。しかも毎日味が違う。そこに数日間滞在したのですが、毎日新しい「味噌汁とは違う何か」を楽しむことが出来ました。
笑うしかありません。
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