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ITに強いビジネスライターとして、企業システムの開発・運用に関する記事や、ITベンダーの導入事例・顧客向けコラム等を多数書いてきた筆者が、仕事を通じて得た知見をシェアいたします。

【自分軸】なぜ感謝と利他なのか?

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今回は、感謝と利他が大事だということの真意について僕なりの解釈を書いてから、ではどうやって感謝と利他の心を手に入れることができるのかについて書きます。

言い換えると、どうすれば幸せな気持ちになれるのかという話です。

 

●お腹が空いていれば飯のことしか考えられなくなるが・・・

 

お腹が空けば、飯のことしか考えれらなくなります。これは衣食が足りていないという人ももちろんそうですが、足りている人でも起こることです。

たとえば、夕方から会議があり、その後飲み会があるとすると、会議の時間が延びればイライラする人が多いだろうと思います。どうでもいい発言には怒りを覚える人も出てくるでしょう。まあ、僕はそうです。

そのストレスで、ガンガン食べたり飲んだりするとそのあと後悔がやってきます。

僕の考えでは、お金や名誉も同じじゃないでしょうか?

ないときには、それらのことしか考えられないけれど、得過ぎるしまうと("得過ぎる"というイメージが湧かない人も多いとは思うのですが)後悔します。

後悔ならまだいいけれど、喪うのが怖くなる人もたくさんいるようで、こうなるとないほうがマシなんじゃないかと傍から見ていて思うこともあります。

このように思ったのは、ビートたけし著『間抜けの構造』を読んででした。

たけしさんが売れ始めた30歳の頃に、最初太田プロと月12万円で契約したらしいのですが、それが倍々で増えていき、あっという間に月収(ですよ!)3000万円になったんだそうです。それでとまるかなと思ったら、そのうち桁が変わったというので、年収(年商じゃないですよ)10億円を超えたわけです。

そのうえ、映画監督としても名声を博すなど、名誉も手に入れました。もちろんお笑い界の第一人者の一人という称号はそれ以前から得ています。

いろいろ事件はありましたが、今では日本でもっとも尊敬される大人の一人ではないでしょうか?

ところが、そのたけしさんが言うのです。

おいらにとって、一番「良い時代」というのはいつなのかな。考えたことないや。数ヵ月ぐらいの単位だったらあるかいもしれないけど、一、二年ぐらいで考えたときに「良い時代」というのはない。

後悔はしていないようですが、たけしさんほどの境遇の人でも別に「良い時代」はなかったというのです。

たけしさんのように、どちらかといえば尊敬を受けている人でこうならば、お金や名誉の方面にあまり幸せはないのだと想像できます。お金も名誉もあるのに世間からは尊敬されていない人も多々いますが、そんな人はどちらかというと不幸ではないでしょうか。

 

●人間は基本的に不幸ではないか

 

しかし、お金や名誉が不足している状態だとそのことばっかり考えてしまうわけで、これも不幸には違いありません。

だから、僕は赤貧の勧めなどを書きたいわけではないのです。

でも、ちょうどいい人がいるのかというと難しい。

最近話題になっているのが、年収1,000万円の家族が「ジリ貧」で困っているということ("年収1000万円 ジリ貧"でググるとたくさん出てきます)。

じゃあ、2,000万円なら安泰なのかといえば、たぶんそうでもないのでしょう。年収1億円を超えているのに借金まみれという、僕たち庶民には理解できない人が、世の中にはそれこそ掃いて捨てるぐらいいます。

僕自身、42歳に独立して以降、一番年収があったときとないときでは5倍ぐらいの差がありました(今が最多でないのが哀しいところです)。

では、もらっていたときは幸福だったかというと、それはまったくないのです。むしろもらっていたときには心身症になりました。

それでは、収入が少ないと幸せかというと、そんなことももちろんなく、一番少ないときは鬱病になりかけました。

なので、ちょうどいい収入というのは、たぶんないんだろうなと思うのです。

そういう意味で、金銭や名誉という観点からすると、人間は基本的に不幸だと思うぐらいのほうがいいと感じています。

 

●精神的に幸せを得る方法はある

 

「金銭や名誉という観点からすると、人間は基本的に不幸」と書きました。これは、僕の考えであり、受け入れられない方もいると思います。

ただ、こう考えるといいのは、人と比べなくなるということです。

僕は、人間には不幸の2大原因があって、それは「他者との比較」と「他者からの未承認」だと思うのです。

だとすれば、人と比べなくなるだけで、不幸の半分の原因は除かれるということです。

なので、すんなりは受け入れられないかもしれませんが、「人間は基本的には不幸」という考え方を一度試してみることはお勧めしたいと思います。

ただ、これってネガティブでは?と思う人もいるでしょうから、もうちょっとポジティブな言い方にしたいと思います。

「人間は基本的には不幸ではあるが、その不幸を楽しむことで、精神的に幸福になれる」

しかし、ただ「不幸を楽しめ」と言われても、何言ってんだという人がほとんどでしょう。それには方法があります。

その方法が、感謝と利他なのです。

では、感謝と利他とは何でしょうか?

 

●感謝とは当たり前のことはないと思うこと

 

まず、感謝とは、「世の中に当たり前のことはない」と思うことです。

人から何かしてもらったときに、それを当たり前ではなく「有難い」(=あり得ない)ことだと思う。

自分の持っている能力に対して、生んでくれた親、親を生んでくれた先祖、さらに自分の能力を育んでくれた周囲の人(その親も先祖も)、さらにさらに努力した自分自身を「有難い」ことだと思う。

太陽が毎日東から昇って西に沈むことを、当たり前ではなく「有難い」と思うこと。

生きとし生けるものすべてが「有難い」と思うこと。そして、宇宙にある全てのものに対しても。

このように書くと、抹香臭いと思う人も多いでしょうし、だったらお前はゴキブリにも感謝できるのかという人もいるでしょう。

たしかに、僕だって「ゴキブリさん、生まれてきてくれてありがとう!」などというような人は気持ち悪い(ゴキブリの研究者を除いて)と思いますが、ゴキブリの存在自体が「あり得ない」ことだという考えはあります。ウイルスにだって、病原体にだって、何らかの存在意義を感じることもできます。

もう、これは訓練なんですね。普段から、「世の中に何も当たり前のことはない」と思うしかない。

ただ、逆に言えば、「世の中に何も当たり前のことはない」と思うだけでいいのです。簡単です。

しかし、この簡単なことで、幸福感は得られます。自分の置かれている環境にも、そして自分自身にも特別感が出てくるからです。

そうなるとしめたものです。他者と比較する気持ちが大いに軽減されます。

 

●利他とは人のために何かをすることで、結果として承認を受け取ること

 

次に利他とは、人のために何かをすることで、結果として承認を受け取ることです。

利他にもレベルというものがあり、純粋に人の役に立つことしか考えない人しか利他的と認めないという人もいるようですが、ここではもう少し広い意味で捉えさせてください(そういう人から見たら、僕の言う利他は不純かもしれませんが)。

僕がSNSなどでの書き込みを見ていて、この人は精神的に苦しいんだろうなと思う人たちがいます。

たとえば、ある人(Aさん)が有益だと思った情報をシェアしたとします。Aさんは、人の役に立ちたいと思ったのでしょう。

そうすると、数件に1件の割合で、こんなコメントを書く人(Bさん)がいます。

「それなら、僕は前から知っていましたよ」

このBさんが、精神的に苦しい人です。

Aさんにも、こんな情報にアクセスできる自分の情報収集能力を認めてよという気持ちはあったのかもしれません。でも、少なくともそのシェア情報を見て助かる人がいる可能性があります。実際に、いい情報をありがとうとコメントする人がいることも多い。

ところが、Bさんのコメントを見て、助かる人ってどこかにいるのでしょうか?

Aさんの行為は利他的だと僕は思います。これによってAさんを承認する人は何人かいると思います。

一方Bさんは、ストレートに承認を求めています。「何でも知ってる俺ってイケてるでしょう?」というのがあからさまに見えます。そうでなければ、何で「僕は前から知っていましたよ」などと書く必要があるのでしょうか。

そして、このコメントを見てBさんを承認する人は、ほとんどいないと思われます。なので、承認欲求が満たされないBさんは、別のところでまた同じようなコメントをします。でも、誰も尊敬してくれない。Bさんの承認欲求は満たされないままです。

Aさんは、このような行為を続けていれば、必ずどこかで「いい情報をありがとう」と承認のコメントをしてくれる人が現れます。なので、また同じように人の役に立つことをしようとします。そして、承認してくれる人が少しずつ増えていきます。

要するに、ストレートに承認を求めても相手にされないが、人の役に立てば承認されるということです。

以上は当たり前のようだけど、実は普段からこのように考えて行動している人は少ないのではないかと僕はにらんでいます。

 

●感謝と利他を手に入れるためには?

 

感謝と利他は、方法そのものだと僕は思います。とはいえ、日々実践するとなると、何らかのツールが必要なように思います。

というのは、感謝も利他も忘れがちなことだからです。そして、感謝も利他も偽者はすぐにばれるからです。

この2つは表裏一体のことだと僕は思います。

たとえば、よくいるでしょう? 名刺に「ご縁に感謝」と書くような人が。こういう人は名刺交換をしたあと、今度は「ご縁に感謝」という葉書をくれるものです。手書きで、しかも毛筆書きの凝ったものです。

僕は、申し訳ないけれどそういう葉書に返事を書きません。すると、「ご縁」はそれでなくなることがほとんどです。すると僕は思うんですね。「この人は感謝の意味も良く分かっていない上、自分がご縁に感謝と書いていること自体も忘れているのではないだろうか」と。

本物はこんな葉書ではなく、ご縁に報いることを必ずしてくれます。すると、こちらも報いようと思います。

僕自身の自分勝手さも少し見え隠れしてしまったようですが、たとえ話なので許してください。

では、本当の感謝や利他を手に入れるにはどうしたらいいのか?

この意味では、僕は宗教も1つのツールだと思います。既に何らかの宗教に帰依してる人であれば、自分の宗教が感謝と利他を強化するものになっているかという観点で見直してみるのもいいことだと思います。

 

●宗教に抵抗があるなら自分軸がお勧め

 

ここまで読んでくださった方には、想像通りの展開だと思うのですが、僕は宗教に抵抗があるのなら、自分軸をお勧めしたいと、やっぱり思うのです。

僕のいう自分軸とは、"「誰に・何を・なぜ」提供しているのかを言語化する"ということです。

あなたの自分軸に対して、世の中の全ての人が共感するということはありません。ただ特定の「誰」に対しては響くものになるまで言語化の努力をする。響く人がいるということは、それが利他に違いないからです。

つまり、「誰に・何を」を考えることで、同時に利他の心を言語化するということになります。

また、「誰に・何を」を考える際に、「なぜ」それを提供しようと思うのかを徹底的に考えます。「なぜ」を考えるうえでは、自分の強みや経験などを思い出してもらいます。

この過程を通じて、自分の環境も自分自身も「あたりまえ」ではないということを思い出すことになります。そうすると自然と感謝の気持ちが湧いてくることになります。

実際、自分軸発見のためのワークショップを開催していると、時々宗教的法悦に近いような体験をする方も出てきます。

ただ、残るのは「自分軸」という「言語化されたあなた自身」だけで、そのような興奮は一時的なものです。

それでも、自分軸に宗教に近いものを感じる人もいるかもしれません。

僕はそれを完全には否定できません。

ただし、それは自分自身を信じられるようになるというそういう意味合いにおいて、宗教的なのだと思います。

「誰に・何を・なぜ」提供しているのかということを言語化するお手伝いをしていますと届け出ても宗教法人にはしてくれないでしょうし、僕自身を教祖に祭り上げてくださる方々もいまだに現れないところろをみると、僕のやっていること自体は宗教足り得ないと言っていいでしょう。

自分軸で、金銭や名誉は得られないかもしれません。ただ、精神的な幸せは得られると思うのです。

精神的な幸せでは抽象的過ぎるというのであれば、「自信と使命感による安寧」でしょうか。あるいは、「自分の人生には意味がある」という気持ちかもしれません。

 

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