比喩を使うのはこのときだけがいい
今朝、あるビジネスパーソン向けの本を読んでいて、こんな文章を見かけた。
胸の中にある不安という黒い影が大きくなるのを感じながら、××は・・・
これは、暗喩とか堤喩とかと呼ばれる表現方法で、比喩の一種だ。「不安」を「黒い影」にたとえている。
比喩というのは使いどころが難しいとされるが、基本的な原則を抑えておけばなんということはない。
自分はビジネス文書しか書かないので比喩なんて関係ないと思っている人も、比喩を使ったほうがよい場面とそうでない場面というものがあることぐらいは知っておいたほうがよい。普段の会話でも応用できる話だ。
さて、冒頭の文章はどうだろうか?
これは悪文に分類していいだろうと思う。
なぜだろうか?
比喩を多用してはいけないという人は多い。しかし、この著者は比喩を多用しているわけではない。僕が見つけた比喩はこのぐらいで、240ページにわたる本全体で探しても数ヵ所だろう。
比喩の使い方として、「多用してはいけない」というのは実は何の基準にもならない。正しい言葉なのだが(比喩だらけの文章を誰も読みたいとは思わない。例外は詩ぐらい)、たとえ1ヵ所でもダメな比喩はダメなのである。
比喩の機能について考えてみれば、良い比喩と悪い比喩の違いが見えてくる。
比喩の機能は、大きく分ければ次の2つだろう。
- たとえとしての比喩~わかりにくいことをわかりやすくする
- 表現としての比喩~表現にアクセントを与え豊かにする
このうち、「表現としての比喩」は詩や小説で問題とされるところであり、本記事の読者とはあまり関係のない世界であろう。
これについて、1つだけ提案するとすれば、紋切り型の比喩は使わないということぐらいだ。
「炎のような熱意」だとか、「花のように美しい女性」だとか、この手の手垢のついた表現は避けたい。このような表現を使っても感心する人はほとんどおらず、かえってボキャブラリーの貧困さを嗤(わら)われることになるだけだ(「不安という黒い影」という表現も紋切り型でそういう意味でもダメだ。ただ、これの本当に悪い理由は後述する)。
以下、「たとえとしての比喩」について述べていく。
わかりにくいことを言い換えでわかりやすくするというのが比喩の本来の機能である。比喩のことを「たとえ」ともいう。「たとえ」とはまさに言い換えのことだ。
わかりにくいことをわかりやすくする方法には2通りある。描写と比喩だ。
描写とは、細かく書き込んでいくこと(ただし、これも書きこみすぎはいけないとされる)。
たとえば、最近海外のAという町に旅行したYさんと話相手のZさんがいたとしよう(すみません。海外旅行経験が乏しいので、具体例が浮かびません・・・)。
● 描写の例 Zさん「Aってどんな町なんですか?」 Yさん「そうやね。三方を山に囲まれていて、もう一方は海やねんね。それで昔は軍事拠点になっていてな。それと13世紀から15世紀ごろに建てられた古い教会なんかも多いかな。今は観光名所やね。ホテルや土産物屋が立ち並んでる。・・・」 ● 比喩の例 Zさん「Aってどんな町なんですか?」 Yさん「そうやなあ。日本でゆうたら鎌倉かな」
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比喩はこのぐらい簡潔なほうがいい。Aという町を正確に伝えているとは言えないが、なんとなくイメージが湧く。ただ、鎌倉について知らない人にはチンプンカンプンだという弱点があるので、できるだけよく知られていそうなものにたとえることが必要となる。
描写でいくのか、比喩でいくのかは話の内容次第である。Aという町そのものについて詳しく話すのであれば、描写となるだろう。また、町そのものよりも出来事を中心に伝えるのであれば、Aについては比喩でいったん切り上げて、必要に応じて描写していけばいい。
あるいは、描写そのものをわかりやすくするために、最初に比喩で伝えてから、詳しく描写していくという手もある。上の例でも、最初に「日本でゆうたら鎌倉かな」と言ってから、「三方を山に囲まれて・・・」というと、聞いているほうはより分かりやすくなる。最初に大まかなイメージが出来上がるからだ。
以上見たように、比喩の本来の機能は、わかりにくいものや未知のものを人にわかりやすく伝えるということである。
「胸の中にある不安という黒い影」というような表現がなぜダメなのかというと、ほとんどの人が「不安」とはどういうものかを知っているからだ(知っているからこそ、「黒い影」という比喩が成り立っている)。
つまり、意味がないのです。機能を果たしていないというよりは、必要のないところで使っている。
不必要なことをされると不快を感じる人もいる。「胸の中にある不安という黒い影」という表現を見て「キザだなあ」と思った人もいるだろう。「キザ」は「気障」と書く。文字通り、気に障るのだ。気に障る原因は不必要なことをされた不快感に由来すると僕は考える。
逆に、ビジネスや教育の場では、もっと比喩を活用すべきだと思う。もちろん、「たとえとしての比喩」のほうだ。
昔こんなことがあった。1991年といえば、TCP/IPはまだ、コンピュータ技術者でも一部の人しか知らない技術だった。僕は、大手コンピュータメーカーF社の大型汎用機(メインフレーム)へのTCP/IP実装プロジェクトに外注として参加していた。2年目だった。
F社のリーダーから、同社の新人にTCP/IPを教えてほしいという依頼があった。僕は諒承した。1回目のレクチャーにはリーダーも参加し、終了してからこう言われた。
「森川さんの説明は間違っていないけど、前提知識のない人間にはちょっとわかりづらい。彼はSNAについてはよく知っているので、それになぞらえて教えてほしい」
SNAとはIBMが開発したネットワークアーキテクチャーである。当時の日本のコンピュータメーカーはIBMの互換機を作っていたのでSNAには詳しかったのである。汎用機の通信ソフトを作っていた僕も当然SNAには詳しかった。
そこで、「SNAで言えば・・・」というたとえを使って説明するようにしたところ、急速に理解が進むようになった。
これも一種の比喩と言っていいだろう。
比喩というと、自分には関係がないと思うビジネスマンは多いものだが、それは「表現としての比喩」のほうのことである。こちらは確かにビジネス現場ではあまり使わないほうがいい。「気障」になりやすいからだ。
しかし、「たとえとしての比喩」はもっと使われていいように思う。
実際に効果もあるし、「なんとかわかってもらおう」という気持ちも伝わるからだ。
まとめると、比喩をビジネス現場で使うときは、「たとえ」としての機能性を重視し、「表現」としての効果はねらわないこと(図)。
たった、これだけのことを知っているだけで、冒頭の引用のような失敗は避けられるうえに、話し上手・教え上手にもなれる。
ところが、このようなことが意外と言われていないようなので、書いてみた。
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