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死刑になりたくて人を殺す者にどう対応すればいいのか?

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2012061101.jpg大阪ミナミで痛ましい通り魔事件が起こった。

▼<心斎橋通り魔>礒飛容疑者「死刑になると思ってやった」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120610-00000045-mai-soci
(写真は上のさらにリンク先より)

事件の残虐性、不条理性にショックを受けた方も多かったように思う。

罪のない方が無残に殺されたことに強い憤りを感じる。被害者のプロフィールを見ていると余計に無念な気持ちになる(南野信吾さんのツイッターを見たが、とてもいい方なのが伝わってきて、かなり悲しい気持ちになった)。

だからこそ、考えざるを得ない。

死刑になりたくて人を殺す者に、我々はどう対応すればいいのか、と。

僕が仮に遺族だったとしたら、このような通り魔が死刑になったとしても(量刑的には難しいということは措いて)、素直に溜飲が下がる、とは思えない。だって、容疑者の思う壺なのだから。

あるいは、自分が裁判員に任命されたら、どんな量刑が適当だと思うのか。

とはいえ、ひとりで考えられるような簡単な問題ではない。

このような事件は、この数年に何度か発生している(注1)。

そのたびに、いろいろな議論が巻き起こっている。

そこで、今回主にネットから代表的な意見を拾いつつ、主な論点や疑問点をまとめてみた。

全体の結論はないが、個別の疑問に関しては僕の意見も添える。ご自分で考える際の参考にしていただければ幸いである。

 

死刑を廃止すればいいのか?

 

まず目についたのが、死刑になりたくて殺人を犯すものがいるのであれば、死刑を廃止すればいいという意見だった。

僕は、そのような論の立て方をしたことがなかったので、その"論理の正しさ"に驚いてしまった。論理的には非の打ち所がない(三段論法でという意味で、である)。

とはいえ、ことは簡単ではない。死刑が廃止されたとしても、自殺願望で人を殺すような人間は、もっとゆがんだ犯罪を犯すかもしれない。どちらかというとそれを恐れている人が多いだろう。根本解決と言えるかどうか。

もちろん死刑廃止論者の大半は、死刑制度のメリット・デメリットを詳細に比較した上で、デメリットが大きいと判断しているわけだ(上のような理由だけで死刑廃止を言っている人はむしろ少数派だろう)。それらを一つ一つつぶさに検討しないと死刑廃止論に賛成とも反対ともいえないのは言うまでもない(少なくとも、今回は死刑廃止論について書きたいのではない)。 

 

死刑以上の極刑を用意すればいいのか?

 

だったら死刑以上の犯罪抑止力のある極刑を用意したらいいのではないかという意見も多い。

中世の残酷な刑罰(八つ裂き、鋸引きなど)を復活させるという意見もある。

遺族によるなぶり殺しを認めるという意見もある。

公開刑や復讐刑が現代でもありなのかは措くとして、いっけん抑止力はありそうだ。

確かに飲酒運転は、罰則を重くすることで激減し、交通事故死者数も同様に激減した。厳罰化の効果として評価していい事例だ。

ただ、飲酒運転においてはメリットとリスクを比較した上で、多くの人がやめているというのが現実であり、理性的な人間が合理的な判断をしたということだと言っていいだろう。

通常の犯罪と比較すると、殺人というのはかなり特殊な犯罪といってよい。人間存在の基盤に関わるからだ。犯す者が理性的かというと疑問があるし、普段は理性的でもそのときはかなり異常な状況だったということも考えられる。一筋縄でいかないのが殺人なのである。

刑務所に入りたくて犯罪を犯す者もいるが、死刑廃止論と違って懲役や禁固の廃止論議が国民的議論として巻き起こらないのは、殺人と死刑の特殊性にあるのだと思う。

そのような特殊な殺人という犯罪において、特に自殺志望者に対して、死刑以上の極刑が抑止力になるかというと、これはやってみないと分からない(別の話題だが、この記事から判断すると、シリアルキラーに対しては抑止力にならない可能性が高い)。

とはいえ、議論をすること自体はアリだろう。議論の中で見えてくることはいろいろあるはずだ。


法に基づいて粛々と刑を執行すればよいのか?

 

死刑廃止も死刑以上の極刑も、どちらも抑止力(ただ、極刑のほうは遺族感情にも若干踏み込んだが)の議論であった。

死刑になりたいから殺人を犯した者への対応という意味では、やや違っていた。

対応という意味では、もっとも冷静な立場は、法と判例に基づいて裁判をし、粛々と刑を執行すればよいというものであろう。

このときに考慮すべきなのは、そもそも法とは何のためにあるのかということである。

一般常識的な意見は、社会秩序の維持にあるというものだろう(http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/hougaku/hougaku01.htm など)。

この議論に深く踏み込もうと思うと、ミッシェル・フーコーの『監獄の誕生』などを読まないといけないだろうが、今はその余裕がない。一般常識的な意見に従うことにする。

となると、少なくとも遺族のために法律があるわけではないということになる。

だから、遺族がどう思うかとは無関係に、現行の法律の範囲で裁けばいいという意見には一定の説得力がある。

とはいえ、自分の家族がこのような通り魔に殺されて、その裁判を見守る立場だったら? ということはどうしても考えてしまう。

死刑でなければかなり複雑な気持ちだろうし、死刑だとしても「だったら、自分に刑を執行させてください」というのではないかと思う。あるいは、どこからかピストルを入手して、判決と同時に犯人を撃ち殺し、自分も自殺するかもしれない。

僕はその道は選ばないが、自暴自棄になって、自分が新たな通り魔になる者も出てくるかもしれない。

法がどうあろうと、遺族感情を無視した議論は、やはりありえないのではなかろうか(遺族がいなければどうでもいいという話では当然ない。自分が被害者になるのは嫌だし、遺族だったらどう考えるかという問題は常にあるからだ)。

 

過去の判決はどうだったのか?

 

土浦連続殺傷事件については、死刑判決が出ている。

これに対して、犯人は、以下のような態度をとっているという(注3)。

弁護人は即日控訴したが、Aは12月21日に行われた読売新聞社の取材に対し、「完全勝利といったところでしょうか。(死刑願望が)変わることはない」と話したうえで「常識に縛られている側からみてそう見えても仕方ない」と述べ、「後は(死刑)執行までの時間をいかに短くするか。(国が執行に)動かなければ、裁判に訴える」と、死刑判決は望んだものであり死刑執行されなければ訴えると、自身の願望が成就した事に対し笑みを浮かべていたという。(Wikipedia「土浦連続殺傷事件」より)

被害者も遺族もまったく浮かばれない。

遺族の反応はこうだ(ただし、判決前の第5回公判。被告が公判が長引くと知って激昂し、机を押し倒した日だ)。

父親は書面を読み上げる形で意見を述べ、「なぜ息子が殺されなければならなかったのか。想像もしていなかった」と無念さを吐露。金川被告に対し、「家族や家庭環境のせいにしないで、自分の責任を感じてほしい」と話す一方、「この事件の最大の原因は(金川被告の)両親にある。罪を下せるなら、両親にも罪を下したい」と述べた。(http://shadow9.seesaa.net/article/122723352.htmlより)

※「A」とあったり、「金川被告」とあったりするのは、引用元の表記による。

もちろん両親には罪は下らない(社会的には十分責められているかもしれないが)。また、両親に罪が下るとなると、ますます犯人の思う壺のような気さえする。

しかし、これが遺族感情というものであるのは、僕には十分理解できる。

なお、土浦連続殺傷事件は、裁判員裁判ではない。自殺願望による殺人事件について裁判員がどのように裁くかは、非常に興味深い(注4)。 

 

世の中が悪いからなのか?

 

最後に再び抑止に関する議論に戻りたい。

秋葉原通り魔事件により、各地の繁華街の警備はかなり強化されたと思っていたのだが、心斎橋のような大阪でも一二の繁華街で発生してしまったことを考えると、警察のがんばりにも限度があるということなのだろう。

青信号を渡っていても車が突っ込んでくる世の中である。 自己防衛するしかないが、日本を銃社会にするというのも賛成はしがたい。危険を常に察知して、早めに逃げるぐらいしか我々に道はないが、酔っているときにはそれも難しい。

であれば、やはりこのような犯罪は少しでも減ってほしいと思うのだが、世の中がよくなれば減るという意見もある。

自殺願望を持つ人がひとりでも減れば、同時にこのような殺人事件もなくなっていくだろうという意見である。

また、そのような社会を作っていくきっかけになったということで、被害者の鎮魂も果たそうという考えでもある。

僕は、前向きでいいと思うし、社会がよくなることで鎮魂の一助になるという考えにも賛成だ(遺族が納得する意見かどうかは分からないが、僕が遺族だったら多少は慰めになると思う)。

とはいえ、このような犯罪を犯す者の動機が社会が悪いからだというのは当然納得がいかない。

罪は罪としてどう裁いたらいいのか、この問題があることを忘れて社会改良論だけを言うのは片落ちであろう。

犯罪には抑止と裁きの二つの観点があり、これらをごちゃまぜに議論してはいけない。

 

(注1)強く記憶に残っている事件は上の二つだろうが、こちらのブログで他にも例を挙げてくれている。2008年5月の記事なので、リーマンショック以前の事件ばかりだが、こんなにあるということには注意してほしい。今回の事件をリーマンショック以降の経済状況と結びつけるのは無理筋だということだ。

(注2)死刑にしてほしくてした犯罪かどうかは意見が分かれるかもしれない。僕は、土浦連続殺傷事件を犯人が参考にしていること、犯人が自分の将来に対して希望が持てない状況などから考えて、自殺願望による殺人(間接自殺)に含めていいと思う。

(注3)この判決に対して、以下のようなちょっと信じがたい意見があったそうだ。

Aは12月28日に控訴を取り下げる手続きをし、一週間後の2010年1月5日に死刑判決が確定した。この行動に対し、土本武司は「『一刻も早く死刑で死にたい』という100年に1人しかいないような、普通では考えられない被告にとって、取り下げは当然の手続きなのだろう」と述べた。(同じWikipediaの記事より)

「100年に1人」とは、恐るべき認識違いだ。 注1でリンクしたブログにもあるように、2001年から2008年だけでよく知られた事件で8件(さらに秋葉原も含めてると9件)発生している。

(注4)秋葉原通り魔事件と似た通り魔事件の裁判員裁判については、マツダ本社工場連続殺傷事件がある。本件では、無期懲役であった(この記事を書いた時点では控訴中)。

 

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