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ITに強いビジネスライターとして、企業システムの開発・運用に関する記事や、ITベンダーの導入事例・顧客向けコラム等を多数書いてきた筆者が、仕事を通じて得た知見をシェアいたします。

「正しい日本語」の議論が実用性という観点に落ち着く理由

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先日、「ら抜き言葉による生半可なやつのいぢめ方」という記事を書いたところ、「「正しい」日本語とは何か?ということを突き詰めてみると面白いかもしれません。」というコメントをいただいた。

それに対して、ちょっとつれないかなと思うコメントで返してしまった。反省して、ちょっと私論を書くことにした。

僕は、かねがね正しい日本語などという議論をしても仕方がないと思っている。

そうは言っても、先日「@IT自分戦略研究所」で仕出かしてしまったようなミスを自己弁護しようと思っているわけではない。

間違いよりも間違ったときの心理を反省する(附:呪の話)」という記事でも書いたとおり、僕は「流れに掉さす」という言葉を「時代の趨勢に逆らう」という意味で使ってしまった。こういうのは良くない。

※ちなみに@ITと@IT自分戦略研究室を同じにしてはいけない。いちおう別媒体です。誠と誠Biz.IDと同じぐらい違います。えっ、一緒だって? うーん。中の人たちは一生懸命やっているんで、そんな大雑把なくくりはいけません。

 

「流れに掉さす」の件でいえば、いま6割ぐらいの人が僕と同じ(間違った)意味で捉えているようだ。

6割ということは多数決なら僕が正しい。民主主義の論理でいえば、誤用を指摘するやつのほうが間違っている。

しかし、調べてみれば間違いが分かるという時点で、やっぱり間違いは間違いなのだ。こういう間違え易い言葉を自分を賢く見せたいがために、ロクに調べずに使ってしまった僕に非がある。僕は、自分の卑しい心根を反省しているのです。

故事成語、ことわざなどは、僕はその類だと思う。間違いは間違いなのだ。間違え易い言葉を気取って使う、ということをやめれば防げるミスだ。

とはいえ、9割の人が間違って使っていたら、もうその意味に変わったと思っていいのでは、という意見もあるだろう。

そんなことはない。実を言うと、9割の人が間違って使っているわけではなく、間違って認識しているだけのこと。つまり、ふだんそんな言葉を使わないということなのだ。間違いは間違いであり、使われないのなら使わないに越したことはない。

 

法の問題は、誤用とは違う話だ。こちらはどんどん変わっていく。

文法の変化の大きな方向性はわかりやすい。省力化と単意化だ(注)。

省力化の例はいくらでもあるが、『枕草子』にこのような例があるそうだ。

なに事を言ひても、そのことさせんとす、いはんとす、なにせんとすといふ、と文字を失ひて、ただいはむずる、里へいでんずるなど言へば、やがていとわろし。

清少納言が「若者言葉」を批判している。「~とす」という正しい言い方をしないで、「むずる」という省略した言い方がとてもみっともないと言っているのだ(表記すると長くなるが)。

い抜き言葉(愛しています⇒愛してます)は、この流れである。

単意化は、僕がいま作った言葉である。複数の意味を持つ単語(助動詞などに多い)をできるだけ単純な意味にしていこうというものだ。

たとえば、古語では頻繁に使われる「べし」という助動詞がある。これは、推量・意志・当然・適当・命令・可能の6つの意味を持つ。

現在残っているのは、「~すべきだ」という言い方ぐらい。これは「当然」にあたる。現代語とは言いがたいが、「~べし」という表現を冗談めかして使うこともある。これは「命令」だ。その他の意味あいで使うときは、現代語では別の助動詞や表現を使う。

「ら抜き言葉」は、こちらの流れだ。助動詞「れる・られる」には、受身・尊敬・自発・可能と4つも意味がある。「ら抜き言葉」は可能の意味でしか使われない。単意化の一つの流れなのだ。

国語学者の中には、200年後ぐらいには「ら抜き言葉」が正しい文法になるという人もいるようだ。

(注)もう一つ、発音との表記の一体化による流れもある。四段活用が五段活用になったのはこの流れによる。他にもあるかもしれないが、大きいのはこの3つではないかと思う。

 

法としての整合性は、どんどん崩れていく。

僕は国語学者ではないので、正確なところはわからないが、多くの人が日本語の文法は平安時代に確立されて、その後乱れる一方だと言っているようだ。

さきほどの『枕草子』の例を見ると、確立された瞬間にすでに崩れているということになる。

実際、鎌倉時代以降、日本語の乱れを嘆く人々が、『源氏物語』などに倣った復古調の文体で書いている。『徒然草』などがそうだ。

ただ、『徒然草』も清少納言にかかれば、そこらじゅう添削されることになるだろう。

文法としての整合性という意味で一例をあげるとすれば、指示代名詞の問題がある。

指示代名詞というと、これ、それ、あれ、どれ、これら、それら、あれらなどである。つまり、既に出てきた名詞や名詞句を指し示す言葉ということになる。

ところが、「この」とか「その」とかも指示代名詞という人がいる。というか校閲など文章の現場では、あたりまえにそう言われる。

現代語の文法でいえば、これらは連体詞だ。なので、できれば指示連体詞(実際にある)という言葉を使ってほしいのだが、誰も使わない。

理由がないわけではない。

「この」は元々、「こ」という代名詞と「の」という助詞がくっついたもので、元々は二語だったのだ。

しかし、現在では一語になってしまった。「こ」と「の」を二語にしていた頃のほうが文法としては美しいと思うのだが。

まあ、適切な例ではないかもしれないが、この記事を書いた動機が「この」の品詞はなんだろうと考えたことにあったので、無理やり入れさせてもらった。 

 

し言葉も含めると、正しい日本語などというのはとても難しいことになる。では、書き言葉に限れば簡単だろうか? 実は、もっと奥が深い。

誰でも知っているのは、表記のゆらぎの話である。たとえば、送り仮名。

「打合せ」なのか「打ち合わせ」なのか? 文科省のおススメはたぶん「打ち合わせ」だったと思う。ただ、「打合せ」のほうが、こなれた名詞だという感じもする。

基本的には、語幹を漢字にし、活用する部分をひらがなにするというのが文科省のおススメだったはず。

ところが、そうなると困った問題が起こってしまう。

「細い」。これ、どう読みますか? ほとんどの人が「ほそい」と読んだと思う。しかし、活用する部分をひらがなにするというルールだとすれば、「こまかい」とも読める。なので、「こまかい」のときは普通は「細かい」と書く。

こういうのは例外で処理すればいいと思うだろうが、では、なぜ「細そい」ではないのかという問いに答えられますか?(実際こう書く人もいる。誤解を招かないという意味ではベストだ) 僕は答えられません。

送り仮名については、それでも、少なくとも一つの文章の中では統一したいところだ。ところが、そもそも漢字で書くのかどうかということになると、完全に著者の恣意性に任されている。

最近はワープロで書く著者が多いので、学習機能で自然とそろっていることが多いのだが、この辺は漢字が多いかなと思って、ひらがなで書き直すことも多い。同じ本の中で同じ言葉が、漢字でもひらがなでも書かれている例はいくらでもある。

文芸書では許されても、公文書やビジネス文書では校閲され、統一されることが多いようだ。ケース・バイ・ケースなのである。

 

記問題において、最高に奥が深いのは「正字正假名運動」だろうか。

正しい日本語の表記を実現するために、「現代仮名遣い」と「常用漢字」の廃止を目指している運動だ。

これだけ聞けば、何を旧態依然なことをいう、封建主義者の集まりだろう、と思うかもしれないが、彼らの意見に耳を傾けると、一理も二理もあるのだ。

まあ、常用漢字の廃止は僕も賛成です。ブログでは直されないが、お金をもらって書いている文章には校閲が入る。そうすると、「改竄」が「改ざん」に直されたりする。「顰蹙」にいたっては「ひんしゅく」だ。むちゃくちゃ力弱くなってしまう。

まあ、僕もこういう校閲に挑戦するような語彙(これなんかも「語い」にされるけど、「語らい」と読み間違えられそうだ)を使わなければいいのだけど。

ただ、漢検の隆盛や難しい漢字を書くようなクイズ番組を見ていると、アンチ常用漢字派は多いのではなかろうか。

出版社はルビを復活させてほしい。ちなみにHTMLにだってルビ用のタグがあるのだから(どのブラウザでも表示されるかは知らない)。

 

が飛んだ。

彼らが常用漢字に反対する理由は、このような表記の制限もあるし、また常用漢字にすることで本来の意味でない漢字をあてないといけないケースもあるからだ。

最近では、「日食」。これは、やはり「日蝕」と書きたいところだ。

「障害」も「障碍」と書けば、「障がい者」などというくだらない表記をしなくてすむ。「障碍」にはチャレンジしている様子という意味合いがあるからだ(注)。

常用漢字の廃止の中には、正字体の復活も含まれている。

「戀」を「恋」などと書くと、本来の意味が分からなくなるだろうという主張である(これももっといい例があるだろうけど)。

この辺までいくと、僕にはどちらがいいかわからなくなる。

もしそうならば、象形文字あるいは象形文字に近い篆書(判子などに使う文字)ぐらいまで戻らないといけないのでは、と思ってしまう。

(注)最初に記事を書いていたときには忘れていたのだが、「碍」は常用漢字入りしたはずだった。多分、障碍者関連の議論があったのだろう。だが、この書き方もまだまだ普及はしていないようだ。

 

だ、この本来の姿を保存したいというのが、正字正假名運動の最大の目的だということを理解する必要はある。

彼らが、「会う」を「會ふ」と表記するのは、決して気取っているわけではないのだ。

「会う」は現在ではワ行五段活用の動詞であるが、元々はハ行四段活用の動詞である。「会う」などと書いてしまったら、それが分からなくなるではないか。こういう主張なのである。

これをもって旧態依然だとか封建的だとかというのは、的外れな批判となる。

だって、我々日本人が民主主義の元祖であり総本山だと思っている国、つまりフランスが頑なにこれを守っている国だからだ。

たとえば、プジョーという自動車メーカー。これは"peugeot"と書く。何ですか、この"t"は、と我々日本人は思うのである。これが日本語なら、"t"はいつの間にか書かれなくなるだろう。

すみません。白状するとフランス語はさっぱり分からないのでこの例が適切かは分かりません(そんなんばっかり・・・)。ただ、いちおう正しいとされる知識では、フランス語は綴りを見れば、単語の成り立ちがほぼ分かるということだ。

日本語では、ぱっと見て分からないものがたくさんある。

だから、正字正假名運動は、日本語のフランス語化(?)を狙っている、モダンな運動という側面もあるのだ。

かどうかは分からないのだが、日本文化の保存という意味では、耳を傾ける必要がある主張の一つだろう。

※ただ、単語の成り立ちまで本当に分かるようにするには、ア行の「い」とヤ行の「い」を使い分けるところまでいかないと中途半端だよなあ。

 

といって、僕は正字正假名運動の徒ではない。先ほどから平気で「うそ字うそ仮名」で書いている。

理路が正しいことが、すなわち生きるうえで正しいこととは思えないからだ。

では、僕が思う「正しい」日本語とは何か?

《対象とする読者や聞き手に自分の言いたいことが伝わる日本語》という実用的な定義に尽きてしまう。

そして何だかんだ議論されながらも、多くの人は自然とここに行き着いているように思う。

いつの世も、学者や知識人は言葉の乱れを嘆くものだが、落ち着くところに落ち着くということだろう。

ただ、現代のうざいところは、学者でも知識人でもない人たち(たぶんB層だろう。B層については前回のブログをご参照)が日本語の乱れを嘆いていることだろうか。

 

ころで、「対象とする読者」とは、たとえばこの記事でいえば、「僕の年齢である48歳の前後10歳ぐらいの人たちで、性別は問わず、日本語の問題に関心があり、記事の内容を参考にして自分の頭で考える人たち」ということになる。

だから、多少誤読されても問題ない。その分こちらも好き勝手なことを書ける。書いてあることが分からないという人を無視するかどうかも自由だ(今のところ、してはいないが)。

誠ブログは「日々の気づきから、日本の将来を考えるテーマまで」、つまり何でも書いていいブログなので、このようなことも許される。

これが、普段仕事にしているビジネス文書の作成であれば、当然変わってくる。誤読はできるだけ避けなければいけないし、書いてあることが分からないとクレームがあれば、貴重なご意見として対応・対処する必要がある。

この辺をわきまえず、どんなところでも分かり易い文章が一番と思う人が多いのは残念なことではある。 

わざわざ自分の対象読者を書くブロガーはあまりいない(記事の内容によっては書くこともある)。なので、読んで理解できなかったり、不愉快に思ったとしたら、最初に疑うべきは、これは自分に向けたメッセージかどうかということなのだ。

自分向けでないと思ったら去っていただくのがいい。しかしながら、自分向けでないと思っても、何だか深いことがあるかもしれない(僕のブログはそうではないことが多いだろうが)、それを知りたいと思ったときに、読書の幅が広がっていくのも事実である。

分かり易いビジネス書や成功本ばかり読んでいる人は、話をしていてもやっぱり浅いと思う。

 

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