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ITに強いビジネスライターとして、企業システムの開発・運用に関する記事や、ITベンダーの導入事例・顧客向けコラム等を多数書いてきた筆者が、仕事を通じて得た知見をシェアいたします。

夜行バスの事故はいったい誰が悪いのか?

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小泉時代に、「痛みを伴う構造改革」というのがあった。その目玉の一つが規制緩和であった。

おっと、タイトルと出だしだけを見ると「規制緩和」犯人説を論じようとしていると思われるかもしれないが、話はそんなに単純ではない――と断っておく。

さて、規制緩和というのは、市場に任せるということである。具体的にいえば、自由競争を促進し、企業努力を促し、日本中にイノベーションが巻き起こるようにする。それにより優良企業が輩出し、景気が回復することを狙ったものであったはずだ。

自由競争なので、もちろん負ける企業は出て来る。そのような会社の経営者や従業員およびその家族にとっては痛みである。このことをもって「痛みを伴う構造改革」と言っていたはずだが、好景気さえ実現すれば、痛みは一時的なもので、「負け組」も救われるはずだった(下図)。

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上は、僕の理解に過ぎないが、大きくは間違っていないと思う。少なくとも、我々は小泉首相のこのようなビジョンを信じて、彼を熱狂的に支持したのではなかったか。

この記事は、小泉批判でも構造改革批判でもない。小泉元首相ほど毀誉褒貶様々な人はいない。彼自身の本音もあまり語られてこなかった。とにかく謎が多い人だ。彼とその政策を評価するのは後世の歴史家の仕事だと思う。

ただ、今年73歳になり、今も現役で建設業界で働いている父の話を聞いていると、実際に起こったことは上の図とは違うことのようなのだ。

 

制緩和が新規参入の促進を目的とするものであれば、競争入札(企画競争でも一般競争でも)とワンセットになるのは当然の理である。

「先ず隗より始めよ」ということで、政府調達からその流れは始まった。これは小泉内閣以前から行われていた。その後自治体が続き、現在のように競争入札が当たり前になった。

ここまでは悪い話ではなかったはずだ。

ところが、父の話を聞いているとそうでもないようで、元請はまだしも、下請にとっては談合時代のほうがぜんぜん良かったというのである。ちなみに父は現役時代元請におり、定年後下請相手のコンサルに転身した。

談合の是非は別として、少なくとも談合時代には元請は下請を守ろうという気持ちがあったのだと言う。今はまったくなく、ただ安いかどうかだけが選択基準だというのだ。当然、体力のない下請はどんどんつぶれていった。残っている下請もさらなる価格低下を迫られて、いつつぶれるか分からない。

 

「つぶれるのが手抜き工事ばかりしている悪徳業者だけならいいんだけどね、良心的な会社から先につぶれる傾向はあるわな」と父は言う。もちろん優良企業も生き残っているが、規制緩和により安くやるしか能のない素人企業も新規参入してくるので、もう訳が分からない状態なのだという。

「それでも、元請や発注元(公共機関など)がチェックできればいいのだけど、今は基本的に価格だけだろう? そうなると見積書が読めればいいだけになるから、きちっとした積算ができる役人とかがいなくなっちゃったんだよ」

父の話によれば、ある自治体の予定価格が自分の積算の半分程度だったので、チェックするため基となる積算資料を見せてもらったところ、必要な作業がたくさん抜けていて(たとえば土砂を運ぶはしけの代金など)、これで工事した建造物には近寄りたくないと思ったとのこと。

そして、自治体などのチェック機能とそれに必要な積算能力などは、民主党政権になってからは、回復不能が懸念されるほどのダメージを受けているのではないかと言うのだ。

 

制緩和が悪いと言っているわけではないし、建設業界に談合を復活させようというキャンペーンを張っているわけでもない。

ただ、実際に起こっていることは、どうもこのようなことらしいのだ(下図)。

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建設業界だけならまだしも、僕の知るIT業界でも同じようなことは起こっている。あながち間違いではないと思う。

あなたの業界はいかがだろうか?

 

て、先日の痛ましい夜行バスの事故。

僕は、誰が加害者なのか明らかにしたくて、今回の記事を書き始めた。

素人業者が大量に新規参入した結果価格競争が起こり、無責任な丸投げが横行しているからでは分かり易すぎる。

もっと遡ってその原因となった規制緩和に原因があるのではないか?

そう結論したかったのだが、僕には誰が悪いのか、よく分からなくなっているのだ。

被害者ははっきりしている。加害者がよく分からない。少なくとも特定は難しい。

 

スの運転手も、ある意味被害者だという気がする。自分を彼の立場に置き換えたら、簡単には責められなくなる。

旅行会社やバス会社はどうだろうか?

なにしろ「自己責任」の世の中である。事故を起こしたら責められるが、しかし機会損失の結果会社をつぶしても誰も助けてくれないのである。

だから、GWという掻き入れ時に、一方で事故が起こるかもしれないと思いながら、一方ではとにかくバスが運転できるやつを掻き集めろという心理は分からなくもないのだ。

もちろん被害者への保障や今後の安全対策の見直しなど一定の責任はあるが、加害者の氷山の一角という気がするのである。

 

会的な加害者を探せば、何でも安ければいいという我々消費者全般も悪いし、その空気を作っているマスコミ(安い店の特集が大好きだ)も悪い気がする。しかし、本当にそうなのかは断定できない。

じゃあ、規制緩和が悪いのかというと、それもよく分からない。結果論として、規制緩和が悪かったと結論付けるのは簡単だが、だったら我々はどうして小泉ビジョンを信じたのか?

小泉ビジョンはあながち間違いではなく、そうならない国民の能力が低いだけかもしれない(実際、会社の経営に失敗すると社長が無能だからで片付ける人はたくさんいる)。いや、国民の能力は高いのだけど諸制度に問題があるのかもしれない。ただ、僕には判断基準がないし、誰かが示してくれることもあまり期待していない。

とにかくどこかに深い根があって、それを何とかしないと、こういう事故はなくならないだろう、という予感がするだけだ。

 

不尽な死を嘆く遺族や友人の気持ちが分からないのかといわれたら、それについては大いに反論したい。

僕の友人にも理不尽な事故で20歳で命を失ったやつがいた。

御茶ノ水駅が朝のラッシュでは危険なことをご存知の方は多いだろう。彼は混雑の中、乗換駅の御茶ノ水駅で線路に転落し、列車に轢かれて死んだ。JRは自殺と決めつけ、一部新聞はそれを真に受けた断定報道をした。

しかし、彼は研究室からも将来を期待される学者の卵で、何かに悩んでいた事実もない。遺書はもちろんなかったし、遺品の中にはその日の晩に予定されていた闇鍋に入れる材料が入っていたという。

告別式には、数百人もの同世代の人間が参列し、みんな泣いていた。彼がどれだけ慕われていたか分かるであろう。

こんなに自殺から遠いやつはいなかった。

遺族は、JRと新聞に抗議し、自殺報道の撤回を迫ったが、どちらも受け入れなかった。どれだけ無念だっただろう。親しくしていた僕も、本当に無念だった。

 

不尽な死を理不尽にしない方法はたった一つ。その死を意味あるものにするということだ。それで悲しみが癒えるわけではないが(こんな僕でも、死んだ友人がいま生きていればなあと思って涙することがいまだにある)、受け入れることはできる。

だから、遺族の思いも最終的には事故が意味あるもの、つまり今回の事故の教訓が活かされることに向かうはずだ。

ただ、それは加害者の特定と弾劾ではないように思えてしかたがない。

我々一人一人が、今回の事故に一役買っているように思えてならないのです。

このように書くと、何でもかんでも自己責任という輩と区別がつかないかもしれない。

それでは、こう考えたらいかがだろうか? 自分たちがいつバス運転手の立場になるかわからないし、自分たちの会社がいつ今回の旅行会社やバス会社のようになるかもしれない。

たまたまそうなっていないのは運がいいだけなのだ。その意味で、我々一人一人は有責者である。

そうでも考えないと、亡くなった方々に礼を欠くように僕は思うのです。

 

なみに友人の死は、自殺と断定するJRにとっては何の教訓にもならず、JRの駅のホームにはいまだに防護柵も張られないままだ。友人の死から30年経つが、JRの安全対策が向上したかといえば、それは利用者の我々が良く知っている。

いまだに多くの人が亡くなっている。その中には自殺者以外もいるはずだ。

本当にやりきれない。

 

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