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ITに強いビジネスライターとして、企業システムの開発・運用に関する記事や、ITベンダーの導入事例・顧客向けコラム等を多数書いてきた筆者が、仕事を通じて得た知見をシェアいたします。

男装女子と男の娘と女ぎらい

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先日、「異性化の流れは確実にある」という記事を書いた。

いやあ。「確実にある」どころか加速していますなあ。何のことかといえば、「KERA BOKU」という女性向け男装雑誌の発刊である。

ここ数年、若いきれいな男の子が女装する「男の娘」ブームというのがある。テレビなどでの紹介では、そのカウンターカルチャーだという説明だった。

しかし、これは、男性の女装がブームなので、女性も(本格的な)男装をはじめたなどという単純なものではないのだ。ただ、この二つは根底で深くつながっている。

 

onnagirai.jpg野千鶴子さんの『女ぎらい ニッポンのミソジニー』という本を読んだ(リンク先はAmazonアソシエイトです。ご注意ください)。

僕なりにまとめると、こんな本だ。

まず近代=男性社会がどのような原理で成り立っているかの説明がある。これは上野さんの発見ではなく、イヴ・セジウィックという社会学者の説だ。

男同士の絆は他の男たちから実力を認められることで成立する。「おぬし、やるな」の世界である。これは、言い換えると「お前は男だな」という意味でもある。

このようにしてできあがる男同士の絆を、ホモソーシャルと言う。

ホモソーシャルな世界では、女は劣ったものとして排除される。これをミソジニー(女性蔑視、女ぎらい)と言う(注1)。

女だけではなく、ホモセクシャルも排除される。これをホモフォビア(同性愛嫌悪)と言う(注2)。

近代=男性社会は以上の3つ、すなわちホモソーシャル、ホモフォビア、ミソジニーの三点セットで成り立っているというのがセジウィックの説である。

ミソジニーは、男性にとっては女性蔑視または女ぎらい(女ってよく分からん、という例の言説が代表例だ)という形で現れる(注3)。一方女性には、自己嫌悪という形で現れる。

セジウィックの説を軸に、皇室・婚活・負け犬・DV・非モテなどの現象を、上野さんは読み説いていく。

(注1)そんなことはない、男性社会は女性を受け入れてきたではないかという反論はあるだろう。そのような方は、『女ぎらい』の「東電OLのミソジニー」の項を読むことをお薦めする。2章に渡って書かれたこの項は、本書のクライマックスといえる。

(注2)ホモセクシャルが排除される理由は、男性が性的主体であり、女性が性的客体である(この部分は記憶されたい)ことにある。ホモセクシャルは性的主体の間で互いを客体化するという危険な行為となる。何が危険かというと、男の中に「女」(社会的な)が生まれてしまう可能性があるということだ。この存在を許してしまうと、今度はいつ自分が「女」にされてしまうか分からないという根源的な恐怖が、ホモフォビアの発生する理由なのだという(確かに、ホモを嫌う男性の嫌い方は、嫌悪というより恐怖というのがふさわしい)。

(注3)「いや、俺は女好きだよ」という男性こそ、『女ぎらい』を読んでほしい。あなたがいかに女ぎらいかが分かるはずだ。いやーな気分とともに。

※写真はいつものようにAmazonから拝借しました。画像をクリックするとAmazonアソシエイトに飛ぶのでご注意ください。

 

装女子が出てきた理由を、「映像制作会社に勤務するかたわら、プライベートでコスプレを楽しんだり、やおい系の同人誌などを執筆」しているY子さんが語っている(冒頭でリンクした記事)。

Y子「思うにいまの世の中って、なんか宙ぶらりんなんですよね。仕事では男性と同じ労力を求められる。草食が多いから、自分から口説かないとダメ。だけど、その一方で女性らしくかわいくしていないといけない、なんて言われる。そこがすごくアンビバレンツなんですよ。こんなことなら男に生まれておけばよかった、なんて思うことも時々ありますから。それを一瞬だけでも叶えてくれるのが、男装なのかな? なんて思ったりしますね」

ここには二重規範に苦しむ女性の本音があると思う。 「仕事では男性と同じ労力を求められ」ながら「女性らしくかわいくしていないといけない」。1980年代以降、多くの女性総合職が歩んできた苦難の道である。これが高じると東電OL事件(注1)のような悲劇にさえなる。

ただ、これは一見アンビバレンツだがそうでないことを、上野さんは似たような事例(東電OL事件)で、次のように説明している。

だが、よくよく考えてみれば、そのどちらもが、「男に認められ、承認される価値」の別名ではなかっただろうか。(中略)「できる女」とほめられたいという(中略)男なみの欲望をA子さん(筆者注:東電OL事件の被害者)は持っていた。それだけでなく、男の性欲の対象として選ばれたいという女なみの欲望も彼女は持っていた。いずれの場合にも、男は「承認を与える者」の位置にある。(『女ぎらい』P223)

これを「フェミニストの妄言」と斬って捨てる人もいるだろうが、僕は真実を含んでいると思う。

男装女子が求めているのは、本当は男に生まれ変わることなどではない。「承認を与える者」としての男性(注2)を否定することなのだ。

男装女子を評価する者のほとんどは、まちがいなく女性であろう。男性に見せたくて男装するのではないはずだ。

(注1)1997年、渋谷の古ぼけたマンションで「たちんぼ」をしていた娼婦の絞殺死体が見つかる。これだけなら「ありふれた」事件だったが、この娼婦が実は東京電力の女性総合職であることが分かり、世間の話題をさらった。

 (注2)これは女性上司であっても同じだ。性別は女性であっても、男性社会における女性経営者や女性上司は、「男性」とみなされる。ホモソーシャルへの入会が許されているからだ。白人社会で認められている黒人と同じだ。「俺はニガーは嫌いなんだ。おっと、君は別だよ」という論理が白人社会ではまかり通る。

 

方、男の娘ブームとは何だろうか。

男の娘に関してはWikipediaに詳しい。一言でいえば、セクシャリティ(同性愛かどうか、性転換したいかどうかなど)に関係なく、女装して美しい男が女装することである(美しい男の女装とは微妙に違うのに注意してほしい)。

そもそも、女性の「女装」とは何だったか。

容貌の美醜が自分に属さないこと、女というジェンダーが「女装」によって成り立っていることを、ドラァグ・クィーンと同じく、中村(筆者注、中村うさぎのこと)はパフォーマティブに示すのだ。(『女ぎらい』P189)

女が「女装」するというのは、それは自分が女だと示しているに過ぎない、ということだ(だからこそ、ココ・シャネルの女性用スーツの発明は画期的だったのだ。世界ではじめて「女装」用でない婦人服を作ったという意味で)。ちなみに、容貌の美醜が自分に属さないというのは、自分の美醜を他者の評価に委ねるということであり、また評価を得るためには美容整形も辞さないということだ。

つまり女性の「女装」とは、評価する他者(男性)がいることで成り立っているということだ(いや、女性の目を意識してファッションを決めているという女性も多いでしょうが、ここでは一応棚上げさせてください。『女ぎらい』をよく読めば、女性の目を意識する「女装」の意味も分かるのだが、ここで論じる余裕がありません)。

旧来の男性の女装はナルシスティックかつマニアックなものだった。人目に触れる場合でも、せいぜいが理解を共有する者の間だけだった。そこではかなり醜い女装でも許されていた(ようだ)。

ところが、男の娘は旧来の女装者とは一線を画している。

堂々と人前に出ることで、美醜の判断を他者に委ねる。そして、女性のジェンダーを示す記号である「女装」をすることで自己の肉体を客体化する(見る側から見られる側になるということだ)。そして、マニアックというよりはカジュアルだ。

以前、「異性化の流れは確実にある」という記事で引用したものを一部再掲する。

規範はあるけれど、誰もすでにそれを決めることができないような性の真空地帯の真只中に、男が退場しようとしているそのさなかに、女が乗り出してきたという感じです。乗り出したところにはもう男はいなかった、男はすでにそこを退場していた、というようなひどく深い断絶が生じているように思います。(『スカートの下の劇場』 上野千鶴子)

「性の真空地帯」とは、近代が生んだ<男性は女性が悦んでいる姿を見ることに欲情する>という1990年代にはまだ生きていた(今でも生きてはいるが、自分がパートナーを満足させていると無邪気に信じている男性は激減したはずだ)セックス観を指す。ここでは、男が主体で女が客体という原理が貫かれている。

だからこそ、女性は着飾り、化粧し、男を「誘って」いた。

ところが男はそこから逃げ出してしまった。 先ほどのY子さんの発言の中の「草食が多いから、自分から口説かないとダメ」というのは、まさに男の退場を意味している。

逃げ出すだけでなく、一部の男性は、自分を客体化したいという欲望まで持ってしまった。これが男の娘ブームの真相とまでは言わないが、多くの部分だろうと思う。

先ほど、男の娘はセクシャリティに関係ないと書いた。つまり、男の娘は男性から見られたいという者だけではないということだ。このままで女性にアピールできればと考えている者も多い(大半だと思われる)はずだ。

 

装女子と男の娘は、男が女装するから女も男装するなどという単純なひっくり返しではない。

(一瞬でもいいから)男性の承認を拒否したい女性と、自分を客体化したいという男性が増えているということを端的に示している現象なのだ(注)。つまり、これらは氷山の一角なのである。

ただ、その根底はミソジニーでつながっている(あるいはミソジニーの否定でつながっている)。

気持ち悪い話だろうか。上野さんに言わせると、男であろうと女であろうと、きちっと男または女になった者はすべてミソジニーに囚われるらしいので、ほとんどの善男善女には気分の悪い話じゃないかと思う。

そうであったとしても、昔の家族へのノスタルジーはもう捨てて、現実はこうなのだと理解することにしか未来はないと思うのだ。

もちろん、今回の現実理解には反論もあるだろう。世の中はもっと「ノーマル」だと信じるのはあなたの自由だ。

ただ、少なくとも男装女子も男の娘もすでに市民権を獲得しつつあることの意味を、きちっと考えることが大事なのだと思う。繰り返すが、これは氷山の一角なのだ。異性装をしようとは思わなくても、あなたの欲望とどこかでつながっている話なのだ。

近代の規範が通用しなくなりつつある時代に、近代を再建しようとしてどうしようもないことになっているのが、いまの日本の政治・経済状況だと思えてならない。時代は(はっきり死語だが、それでも)ポストモダンなのだ。

(注)男装女子は見る側(主体)になりたいのではない。男性が主体であること、つまり近代(分かり易くいえば今の社会や職場あるいは家族関係など)を否定したいのだ。一方で男の娘は見られる側(客体)になることで自分の肉体を取り戻そうとしているのだ。ここに著しい違いがある。コインの裏表ではない。なお、近代は男性に肉体がなかった時代だというのは、上野さん他の著書を読んでください。大雑把に言えば、見られるからこそ存在するのであり、客体である女性の肉体はその意味で存在するが、主体である男性の肉体はその意味で存在しないということ。

 

んだか難しい話になった。

最後に一つだけ。『女ぎらい』は、非モテと自覚する男性にこそお薦めしたい。かなーり嫌な気分になるとは思うが、素直に読めばなぜ自分が非モテなのか分かるかもしれない。

ただ、読んだからといってモテるわけでもないけれど(その代表例が僕であります)。

 

朝の情報番組では、昨日はスキンケアをし中には化粧までするビューティ男子が、本日は自分で家具を作ってしまうDIY女子と、本稿で取り上げた女装男子が特集されていた。日本はどうなると心配するお年寄りが立ち上がらないのが不思議なぐらいだ。それどころではないのだろう。(4/17追記)

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