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ITに強いビジネスライターとして、企業システムの開発・運用に関する記事や、ITベンダーの導入事例・顧客向けコラム等を多数書いてきた筆者が、仕事を通じて得た知見をシェアいたします。

異性化の流れは確実にある

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以前、「女性の時代とは職人の時代だということ」という記事を書いたところ、僕があげた職人の定義は女性的だというがそれは男性的なのではないかという疑問がいくつかあったようだ。

また、職人力に自信のない男性はオネエ化すればいいという提案をしたら、冗談でもそんなことを書くなという反論コメントもあった。

そのような疑問や反論をした人が男性か女性かもよく分からないし、ではどのような意見を持っているのかも分からない。なので、この人たちがそのように感じているのかどうかも分からないのだが、男性の女性化や女性の男性化のようなことが気持ち悪いと感じる人もたくさんいるのだろうなと思った。

生理的な不快感に対しては、いくら理屈をこねても払拭できないものだ。長い時間をかけた説得や強烈な体験による変心が必要だろう。だから、どちらがいいかという議論をする気はまったくない。意見というよりは生理の違いをお互い尊重しましょうというしかない。

ただ、全体的に男性の女性化と女性の男性化(併せて異性化と呼ぶことにする)の流れがあるということは指摘しておきたい。それによって家族は無性化している。この辺が理解されないと政治も経済も閉塞感を抱えたまま、日本はゆっくりと滅んでいくという気がするからだ。

 

● 現在の状況は80年代末に予言されていた

 

20120402.jpg草食男子と肉食女子という言葉が世を席巻している。とは言っても、パロディー的な使われ方が主だ。

女子会で焼肉を食べたり、モツ鍋(最近高級化していますな)を食べたりするのが"肉食女子"の主な使われ方であるのも事実だ。

また"草食男子"にいたってはもてない男性の代名詞のようになっている(ただ、僕は実際にもてているのは"戦略的"な草食男子であると思っており、以下はその前提で書く)。それだけならいいが、若い男性を攻撃するための言葉にさえなっている。

ただセクシャリティーの分野では、男性の消極化と女性の積極化は進んでいるようだ。

以下の文章がいつ書かれたものかお分かりだろうか。

 規範はあるけれど、誰もすでにそれを決めることができないような性の真空地帯の真只中に、男が退場しようとしているそのさなかに、女が乗り出してきたという感じです。乗り出したところにはもう男はいなかった、男はすでにそこを退場していた、というようなひどく深い断絶が生じているように思います。(中略)
 なかにはナイーブで素朴で単純なケダモノ君たち、男の中の性の発展途上人たちもいると思いますけれど、性のアイデアル・モデルに強迫されて性の舞台に出てきた女の子たちにとっては、遅れて出てきたケダモノ君たちは自分の基準を満たしませんから、これは情け容赦なく見捨てます。だから需要と供給にすごいアンバランスが起きると思います。

これは、1989年(昭和が終わった年だ)に刊行された『スカートの下の劇場』(上野千鶴子)の本文の最後の箇所だ。

「ナイーブで素朴で単純なケダモノ君」というのは、戦後に一般的になった価値観(つまり男は快楽を与える側で女は与えられる側)に引きずられたままの人たちを指していると思われる。

この解釈が正しければ、上の引用はまさに現在の状況を、20年前に予言したものであると言えないだろうか。

※写真はAmazonから拝借しました。リンク先はAmazonアソシエートとなっていますので、アフリエイトがお嫌いな方はクリックなさらないでください。

 

● 社会科学は予言があたってナンボ

 

上野さんのこの本に対して異論・反論も多数あるようだ。

ただ、数学や論理学とちがって社会科学に関しては、その理屈の正しさよりも、中で予言されていることが中るかどうかが重要なのである(物理学などでも"理論"においては、予言が実験や観測で確かめられることが重要なのは一緒だが)。

マルクス・レーニン主義があれだけ世界中を席巻したのは、第一次、第二次の世界大戦がまさにレーニンの言うとおりに起こったからだった。

一方、その理論で説明できないことが各地で起こり始めると、その理論は終わるか修正される。

マルクスのいうとおりであれば、社会主義国で失業はありえないはずだった。ところが実際はある。特権階級も発生しないはずだった。しかし実際はある。こうしてマルクス・レーニン主義は力を失っていった。

『スカートの下の劇場』でなされている予言は中っていると思う。そして、今のところ上野理論で説明できないことは起こっていない。

上野さんは前掲書で次のような予言もしている。

 フェティッシュというのはこれまでは男を定義する属性でした。(中略)これから女もようやく文化的なセックスができるということになれば、フェティッシュな女というのが現れるかもしれません。そうすると、女のなかからフェティッシュな文学が現れるかもしれません。(中略)そうなれば、おそらく産んだり育てたりということの意味も非常に変わっていくでしょう。でも、全体としてそれは動物的なパワーを低下させる方向に動きますから、日本人はだんだん滅びの方向に向かうのだと思います。

腐女子はたぶんフェティッシュな女だろう。少女マンガの少年愛の世界は、女子たちのナルシスティックな自己像の投影だったとされるが、腐女子の文化はその域を超えていると思われる。

ネットにいけば、彼女たちの"文学"が容易に見つかる。その文学は、けっしてナルシスティックなものではない。他者としての美少年を自分たちの妄想の中で消費していて、それが現実のセックスなどよりもずっと深い快感をもたらしていると容易に想像できる。

彼女たちは、現実の男の代用物として美少年やアニメキャラを求めているわけではないのだ。それは、フェティッシュな男たちが婦人靴などに向ける情熱と同じである。ちなみに目的と手段が倒錯することをフェティシズムといえば蛇足だろう。

産んだり育てたりの意味は大きく変わった。過去のノウハウの蓄積が通用しないため、子を持つカップルは悩んでいるように見える(一方では楽しみも大きいだろうが)。イクメンたちも今はまだ戸惑いの中で、一歩一歩進んでいるような感じを受ける。

そして、少子化の流れは止まらない。日本はゆるやかに滅び続けている。

予言はすべて中っているようだ。

前掲書に価値があると思うのは、予言のシャープさと的中度に冴えがあるからだ。

予言が中るかどうかが社会科学の価値を決めるというと乱暴だという反論もあるだろう。しかしながら、過去の分析ばかりをしていると思われている歴史学においてさえ、その分析が現在と未来に影響を与えるようなエキサイティングなものでないとやはり面白くない。

亡くなった網野善彦さんの本がいまだに読まれているが、彼の著作にはそのような視座があるからに違いない。俗流歴史学ではあるが、井沢元彦さんの本が売れるのも同様の理由だろう。

 

● "先端的"な男たちの戦略

 

時代が上野さんの言うとおりに流れているのだとすると、オネエや草食男子、そして初老の男性たちのオバサン化に対する別の視界が開けてくる。

オネエについては言うまでもなく、女性化というよりも、女社会への男性の進出だろう。進出する理由は、そこに肥沃なマーケットがあるから。女性たちがフェティシュ化していく流れで、モノが要求される。モノだけではなくモノの活用の結果の文化も要求される。そこに進出しない手はない。

草食男子には、いろいろと幅があるようだが、先端的な草食男子たちは女性ファッションの取り入れをはじめている。

そのような流れは1970年代のグラムロックや80年代のニューウェイブにもあったし、日本においてもビジュアル系ロックというものがあった(し、今もある)ではないかと言われるかもしれない。しかしながら、このような流れと草食男子には大きな違いがある。

過去の流れが、ゲイ文化(あるいはゲイの振りをする)への志向性があったのに対して、日本の草食男子においては女性たちのフェティッシュ化の流れに対応したものだ。その証拠として、カップルにおける衣服の共有化が挙げられる。中には、ごく一部だが下着の共有もあると聞く。

このようなことに生理的嫌悪感を覚えるかどうかは別として、当の本人たちはそれを楽しんでいるということは忘れてはならない。時代はそこまで来ているのである。

前掲書で上野さんは、女の夢は「男要らずのユートピア」だと書いているが、それがごく一部とは言え、なんと男女間でも成立しはじめているのだ。これは予言を超えているが、理屈としては上野理論で説明できる範囲だろう。

もう一つ面白い流れは、初老の男性たちのオバサン化の流れである。立花隆氏のオバサンぶりは有名だし、最近では尾木ママの例もある。

作家や評論家にそういう人が多いことにも注意しよう。社会に対する怒りを露わにしたマッチョ的な批評戦略がもはやうまくいかず、笑い(男性的な笑いではなくオバサン的な何でも笑ってしまうやり方)や癒しや共感性という女性的な批評戦略のほうが世に受け入れられるということだ。そのためにはオバサン化せねばなるまい。

ここまでオバサン化していなくても、たとえば「ホンマでっか!?TV」に出てくる男性評論家たちにオバサン的な人が多いのには気づいておられたのではないだろうか。僕はそれを彼らの戦略性と捉えている。軍事評論家のテレンス・リー氏にいたってさえ、昔の落合信彦的なマッチョさはかけらもないと感じる(ニセモノっぽさは共通しているが)。

どれにも共通しているのは、「性のアイデアル・モデルに強迫されて性の舞台に出てきた女の子たちにとっては、遅れて出てきたケダモノ君たちは自分の基準を満たしませんから、これは情け容赦なく見捨てます」という状況に、意識的であるかはどうかは別として、戦略的に対応しているということだ。

いま団塊世代の男性たちで料理教室に通うのがブームだそうだが、これも多分に戦略的なものだろう(もちろん料理自体が楽しいことは僕もよく知っている)。ただ、今まで家で料理しなかった男たちの料理には片付けという観点が抜けていると思うので、奥様たちに迷惑がられていないかが心配だが。

 

● いまの政治がダメな理由

 

突拍子もない話に辟易してしまった方もおられるかもしれない。ただ、男女がお互い異性化しながら、新しい社会を作っていくという流れが、あなたがどんなに気持ち悪く思っても、確実にあるとしか僕には思えない。

まあ別に異性装を勧めているわけでもないし、オネエ言葉を勧めているわけでもない。 また、実際は女性たちもそんなことを求めているわけでもないだろう(注1)。

ただ、男性の感性が女性化することについては、多くの女性が歓迎していると思われる。

そこに気づきつつも、イタイ勘違いをする人たちが、僕が違和感を持つあの人たち――成功屋(注2)――などに多い。

たとえば、女性に好かれたければ、女性の話をひたすら聞こうというような勘違い。これについては、1992年にすでに女性の側から異議申し立てが出ている。

小倉 「聞いて聞いて」って女の子が身の上話しているときに、終電の時間を気にせず、このまま朝まで聞こうと思って聞き続けることが愛なんですか?(中略)いまの男の子は、いちばんもてるコツは、女の子の話の聞き上手になることだぐらいのことはわかっていますよ。だけど上手に聞いてもらったから、それで愛されているってことはないですよね。それはひとつのテクニックなんだもの。(『男流文学論』 上野千鶴子・小倉千加子・富岡多惠子 「村上春樹」の章から引用)

まあ、こうでない女性もいるでしょうが、「女性的感性とはこういうものだと素直に受け入れ、それを"テクニック"としてではなく、内からの自然な表現としてできるようになる」というのが女性化といえば、多少は理解者も増えるだろうか。

僕が成功屋の言うことに違和感があるのは、感動とか感謝とか絆とか縁とか、人間としてあたりまえのことを「テクニック」として語るからだ(と、この記事を書いて分かってきた)。こういうことはテクニックではなく、感性として体現すべきものなのだ。

いまの政治がダメな理由も見えてくる。一番分かり易いのは子供手当の問題だ。

異性化の流れは、家族のあり方を無性化していく。無性化とは、共働きもそうだし、イクメンの出現はその象徴である。要するに父/母という役割分担が崩壊することだ。

しかしながら、政治はいまだにマッチョなままだ。前世紀(歴史的には戦後の高度成長期を中心とする数十年でしかない)の家族観の中で、子育てのための金を出せば、子供が増えるなどと勘違いしている。必要なのは家族が無性化していく中で、子育てを一部代行してくれる外部(たとえば託児所)の拡充ではなかったか。

未来のための政治が問われているが、そのためには流れが見える政治家が必要だ。今年いろいろと新党ができるようだが、僕はどの新党にも期待はできない。党首候補の誰もがマッチョすぎるからだ。

成功屋がしがちなイタイ勘違いで、我が国の政治は充満しているようだ。それは、政治を担う者としてのやむにやまれぬ気持ちからではなく、選挙に勝つための"テクニック"としてのマニフェストにシンボライズされていると言えば言い過ぎだろうか。

(注1)ただ、KAT-TUNの亀梨君のようなきれいな男が、普通に女装して街を歩きたい、などと発言することについては歓迎している女性も多いんだろうけど。汚い女装が嫌いなのは女も男も一緒だ。

(注2)今まで「成功者」という言葉で表現してきたが、実際に成功している人には立派な人も多い。僕が嫌なのは、どちらかといえば「成功法則」を商品として、「誰でもあきらめずにやれば成功しまっせ」などといううそっばちを言う人たちなので、成功者と区別するために「成功屋」という表現を今後は使うことにする。 

今回も硬い感じですねえ。本当はなぎら健壱さんのようなゆるーい文章を書きたいのですが、まだまだ修業が必要なようです。

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このブログは、仕事それ自体を楽しむ人を増やすことを目的に書いています。

なお、僕はこういうことを見聞きして、こういうことを感じたということを書いているだけなので、牽強付会なところもあるでしょうが、大人の心で見逃してやってください。

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