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ITに強いビジネスライターとして、企業システムの開発・運用に関する記事や、ITベンダーの導入事例・顧客向けコラム等を多数書いてきた筆者が、仕事を通じて得た知見をシェアいたします。

すべての"現実"は妄想だから安心して妄想しよう

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きな言葉は現状維持の森川滋之です。

どうも「妄想」という言葉に悪印象を持っている人が多いのではないかと"妄想"している。

なので、今回はラカンの権威を借りて、我々は妄想しかできないのだから、もっと妄想を愛そうということを書きたい。

t01820260_0182026011789058104.jpgただし、ことがラカンだけに最初にたっぷりと言い訳させてください。

僕のラカン理解は、斎藤環先生が中学生・高校生向けに書いた『生き延びるためのラカン』に基づくもので、原典など読んでいない(※)。

その他では、二宮一成先生の『ラカンの精神分析』を読んだが、至るところに現れる"黄金率"の美しさには感動しつつも、内容は半分しか理解していない。

また浅田彰先生の『構造と力』は、丸々一章が、ほぼラカンについて書かれているが、1割も理解できなかった。

元々ラカンに興味を持ったのは、内田樹先生の『映画の構造分析』を読んで、ラカンがポーの『盗まれた手紙』を分析していることを知ったからだった。そのくだりを内田先生がずいぶんわかりやすく説明してくださっているのだが、ラカンの全体像という意味では遠いだろうと思われる。

ということで、先にラカンを理解していないことを告白しておくので、たまたまラカニアンの方がこの文章を読んでも、いじめないでいただきたい。ラカニアンはジャズ評論家やワイン評論家などの数千倍も恐ろしいと聞き、正直びびりながら書いています。

※掲載した表紙のイラストは荒木飛呂彦氏によるもの。著者の斎藤先生によれば、「ラカンの『鬼畜』っぷりまで如実に出ている」のだそうだ。

 

は、素人の僕がラカンの何を書くのか?

僕がラカンに関する本を読んでいて、いつも感心するのは、ラカンのアイデアのすばらしさである。

それが正しいかどうかは素人の僕には分からない。ただ、「鏡像段階」でも「想像界/象徴界/現実界」でも「対象a(アー)」でも画期的なアイデアであるのは分かる。

そのアイデアを援用させてもらおうと思っている。

前置きが長くなった。ここからは一気呵成にいきたい。

 

まれたばかりの赤ん坊は、母親との一体感に包まれている。求めるものは何でもかなう万能感の中にいるのだ。

ところがしばらくして意識ができてくると、自分と母親の間に実は父親というものが存在することに気づく。

その瞬間、母親との一体感は永遠に失われ、その不安を埋めるための代替物として"ママ"という言葉を獲得する。ちょうどライナスが毛布を持っているように。

あとはこの繰り返しで、赤ん坊は少しずつ「人間」になっていく。

言葉を獲得するたびに、物そのものとの結びつきが失われていくということだ。

物は言葉と置き換えられて象徴と化していく。

言葉(※)の世界が象徴界。我々とは結びつきを失った物そのものの世界が現実界。そして、言葉を通じて我々が認知している世界が想像界。

※正確には"シニフィアン"というべきだが、話が長くなるのでここでは断っておくだけにする

 

像界と現実界が逆ではと思う人もいるかもしれないが、上がラカンの用語の正しい使い方である。

なお、想像界のベースに象徴界があり、その向こうに現実界があるというふうに誤解する人も多いらしいのだが、そのような階層的な構造をラカンはイメージしていない。

ラカンは、この3つの関係をボロメオの輪になぞらえている。ボロメオの輪とは、イタリア・ルネッサンス期に栄えたボロメオ家の紋章で、3つの輪がどの1つを切ってもバラバラになるような結びつき方をしたものだ(図)。

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どれがなくなっても人間存在がバラバラに壊れてしまうような関係らしい。

なお、平面図を描くのは簡単だし、ゴムのようなやわらかい素材で作ることも可能だが、固い金属で作るのは無理とのこと。なにやら四次元の世界の話(クラインの壺を思い出したのだ)のようで面白い。人間の心は四次元なのだ、きっと。

※上図は、こちらのページから拝借しました→http://green.zero.jp/hkabuto/fukashigi/a01.html

 

実界は物そのものの世界で、我々は通常認知できない。しかし、心に傷が残るような経験をすると、そこに裂け目ができて、現実界を垣間見ることがある。

この裂け目を"トラウマ"といい、垣間見ることを"フラッシュバック"という。

昨年の震災後に多くの人が知るようになったPTSD(心的外傷後ストレス障害)は、このメカニズムで発生する。

最近は臨床の世界では神経症という総称を使わないのだそうだが、ここでは便宜上使う。PTSDだけでなく神経症はトラウマから物質界を垣間見ている現象だと理解できる。

したがって、トラウマを象徴、すなわち言葉で埋めれば治療することができる(とフロイトやラカンは主張している)。精神分析とはトラウマを言語化する作業なのだ。

 

て、もうお分かりだろう。

我々は、物そのもの、つまり現象そのものを見てなどはいない

ラカンの言葉を借りれば、すべて言葉を介して想像しているだけ。僕の言葉でいえば、妄想しているだけなのだ。

ましてや他人の心の中など、妄想する以外できることはないではないか。

そして、妄想するということは、不安や不満やいらだちなどを言語化(すなわち象徴化)するということである。つまり妄想は、神経症的な方向(※)に行きがちの我々の心に平安をもたらすのだ。

安心して、妄想に励んでください。

※ちなみに、ラカンに言わせればすべての"正常な人間"は神経症なのだそうである。神経症にならないのは統合失調症などの精神疾患を持つ人たちだけらしい。

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