自分のことを「社畜」と言うのはもうやめよう
ネット上を見ていると、時々「社畜」という言葉を目にする。
ボクは「社畜」という言葉をみると無性に悲しくなる。
なぜ、悲しくなるのか?
それは、何気なく使っている言葉で自分を傷つけ
可能性をつぶしているように思えるからだ。
ボクは「社畜」という言葉を今日初めて使う。
本来ならば、インターネットという集合的無意識の中に
悲しい言葉を残すのは避けるべきなのだけれど
今日はあえて書くことにした。
「社畜」という言葉には、2つの使い方がある。
1つは、「あの人は、社畜だ」のような、第三者を指す使い方だ。
ボクの知人に、仕事が大好きな人がいる。
遊びに行くことよりも仕事を優先。休み返上で一生懸命働く。
周りの人は知人を、「そんなに会社のために尽くさなくてもいいのに……」と言う。
ひょっとしたら、彼は周りの人から「社畜」だと思われているかもしれない。
だが、彼は仕事が好きで好きで仕方ない。自分の意志で働いている。
まわりの目にどう映ろうが、どう言われようが彼にとっては関係のないことだ。
問題は、もう1つのほう。「私は、社畜だ」のような、自分を指す使い方だ。
時々目にするのは、ある記事を見て
「社畜(のような私)は○○しろということですね。わかります」
というようなコメントを残すケースだ。
ひょっとしたら冗談っぽく、軽い気持ちで使っているのかもしれない。
だが、よく考えてみてほしい。
言葉の積み重ねは、思考を形作り、セルフイメージを作り上げる。
それはまるで、「わたし」=「○○」と関連付けるプログラミングのようだものだ。
「わたし」 = 「自分の意志で働くスーパーサラリーマン」という言葉を使うとそうなれるし
「わたし」 = 「社畜」という言葉を使うとそうなれる。
さらに、ブログやソーシャルメディアに書き込むために言葉を文字にすると
目がらその情報を読み取り、頭のハードディスクにインストールする。
多くの場合、見た言葉を音読しながら文字にするから
「わたしは、社畜だ」
「わたしは、社畜だ」
・
・
・
と、こころのデータベースに書き込む。
そして、次の機会に
あなたのハードディスクやデータベースに蓄積された情報の中から次の思考が生まれる。
「わたしは、社畜だ」と。
「そんな大げさなぁ」と思うかもしれない。
だが、繰り返し使う言葉はあなたに自己暗示をかけ、あなたを支配するぐらいのチカラがあるのだ。
あなたは本当に「社畜」なのか?
誰がそんなことを言った?
もしそんなやつがいたら俺の前に連れてこい。ぶっとばしてやる。
それでもまだ「社畜」でいたいのなら
それを選択する権利はあなたにある。
だけど、これだけは言わせてほしい。
あなたは決して「社畜」なんかじゃない。
ひょっとしたら、今はそう思っているかもしれないけれど、そんなことは断じてない。
あなたはただ、会社から給与をもらう形態で働いているだけだ。
多くの人と働いているから、時々、自分の思い通りにならないことがあるだけだ。
自分の思い通りにならないことなんて、誰にでもある。
もちろん、ボクにもある。働く形態じゃないんだ。
だからと言って、自己啓発セミナーにあるような
「俺(私)はできる!」と無理にポジティブに思い込んだり、大きな声で叫んだりする必要はないよ。
そんなことをしなくたって大丈夫。
「ひょっとしたら、ボク(私)にもいいところがあるかも?」ぐらいから始めるといい。
そして、「社畜」に変わる、もっとイカしたネーミングを考えてみよう。
「社畜」という言葉を使いたくなるのは、ひょっとしたら
いろんなご苦労や、歯がゆい思いをされてきたからこそなのかもしれません。
もし、そうだったのだとしたら、今まで本当に大変でしたね。
でも、もう金輪際、自分のことを「社畜」などと言うのはやめませんか?
最後に・・・今日は「社畜」という言葉を何度も使ってしまいました。
この言葉を見ただけで嫌な気分になった方もいるかもしれません。
もし、いらっしゃいましたらごめんなさい。お詫びします。