The New York TimesのWebサイトで無料閲覧できる記事数が現状の20コンテンツ/月から4月以降は10コンテンツ/月に変わる件から見えるもの
いわゆる報道機関がWeb上でニュースを閲覧できるサイトを開いているのは最早当たり前という今日この頃。もちろんそれぞれの特性により出し方見せ方は違うわけですが、それらを全部無料で見せるところもあれば、有料で提供するところもあるわけで、まずその部分で見えるそれぞれの姿勢と言うものがあるわけです。
もちろん諸般の事情やら時期的な問題やらなどが絡み付いて、たとえば有料と一口に言っても全部を有料化するというところから全部を無料にしているところまでのグラデーションのどこに立ち位置を置くか、というところがよく見えたりします。そしてその裏にはそれぞれのビジネスモデルが透けて見えるわけですが…
The New York Timesの無料閲覧記事数が4月から半減の10本/月になるという流れ
もともと基本的には有料購読が基本ではあるけれど、無料購読登録をすると月あたり20本まで有料記事が見られるというのがThe New York Timesのやり方でした。ただ、こんな告知があります。
Beginning in April, visitors to NYTimes.com can access 10 free articles each month, rather than 20.
This change will strengthen our ability to continue providing the world’s most insightful journalism today. It will also support the ongoing development of digital innovations and apps that make The Times an experience you won’t find anywhere else.
まさにここに、「報道機関としての自らのポジションの宣言」があるわけです。別に他の報道機関やら媒体も右に倣えするべきだとは言いませんが、自らの価値についてキチンと宣言する姿勢は決して嫌いじゃありません。もちろんそれに対して自分が対価を払うかどうかは別の話ですが、少なくとも私の場合には立ち読みだけでは気がすまなくなれば当然購入に至るのは雑誌でも新聞でも電子書籍系の何かでもWeb上のコンテンツであっても行動原理は同じです。それに触れる「媒体」を選ぶんじゃなくて、その「内容」が欲しいわけで、それを手に入れるための「媒体社」が用意した「媒体」に価値があると判断すればお金を払う。少なくとも私はそういう行動をしていると信じていますし、これからもそうしたいと思っています。
価値があると判断したモノには対価を支払うべきである、という姿勢を忘れたくはないと思います。
因みに「対価」というところをどう理解するかというのがとても難しい日本の社会ではあるのですが
自分に対して何かしら働きかけてもらった対価、と言う意味での「サービスと対価」という概念が希薄なのは大昔から言われている事です。そもそも「サービスとは無料で提供されるものの総称である」的な理解がされているケースも多々あります。もちろん自分的にそういう風に理解している部分がゼロかというと苦しいところでは有りますが、誰かが何かをするときにはその分の手間なり何なりがかかるわけで、当然そこに対価が発生しないことはないという経済観念を持ってる人ではあります。
それを貨幣経済の中で理解するのか、それとも全然違うところで理解しようとする昨今の流れの中で理解するのかというのが何となく気になるのですが、後者は経済システム全体を回すエンジンにはなりえないんじゃないの?という理解をしている私の場合、どうしても「なに考えてるんだろうね?」的なところに帰結したりします。
まぁそれはともかく、自分自身の価値をキチンと担保するための方策を宣言することがでるかどうか。宣言したら、対価に見合う価値を提供できるか。これは業種業態個人法人を問わずどこかで突き詰める必要がある話ではあると思います。ただし、そんな事を言いながら、そんな状況に自分の身を置いて耐えられるのかというところとは別の話なので、原理原則とは別に自分ならどうするべきなんだよ?という自問自答に陥ってしまうのが情け無いところではありますが。