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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

事象の記録を残すというコト

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何かが起きるときには必ず経緯があります。何か経緯があって次の段階に進むわけです。そしてなんにしろそこには当事者がいるはずです。判断にどの程度関与したのか、あるいはどういう立場で関与したのかはそれぞれですが、必ず当事者がいるわけです。たとえば伝聞やら何やらでモノゴトを知ったというのとは全く違う立場なわけで、逆に言うとそこでしか知りえない状況というのが有るわけです。そして、それらの情報は誰かが残さないと判らなくなる。色んな人を辿って関係者にたどり着き、それらの人の話やら残っている資料を集めて「そのとき」を再構築するというのは普通にあるわけですが、そもそも集めるべき資料が無いと裏を取れない。そのときに何が起きたか判らない。

いや、別に政府があの時どうのこうのという話じゃありません。ビジネスでも普段の生活でもなんにでも当て嵌まる話としてです。もちろん、あの時の政府がって話は当然その中のひとつですが。

 

何のために記録を残すのか

その場の関係者間での情報共有というのはビジネスの場で普通にある話ですよね。いわゆる会議の議事録がそれに当たるわけです。これが最終的な記録で、そこに記載されてい無い事はなかったこととされても仕方ない部分と言うのが最終的にあったりしますから、その場の役割やら重要度やらで扱いの重さが違ってくるのは当たり前。

その一方で、その場で何が起きていたのかを記録する事があります。その記録を誰がどのように使うのか判らないけれど、今その場を記録しておかないと記憶から消えてしまうというような衝動(と言うほど明確ではないかもしれませんが)が行動の切っ掛けになることもあるかとおもいます。これを意図的に行うのか、あるいは結果的にその場で集めた資料や撮影した写真や動画がそういったことの役に立つこともあるかも知れません。

もちろん報道としての役割のひとつとしての記録、という行為は当然有ります。この場合には記録を残す事自体が行動目的になりますから非常に判りやすい。ただし、それはあくまでもプロの仕事になりますし、その記録自体がどのように活用されるかというのは、その「人」のバックグラウンドや所属する組織の行動原理によって左右されるところはあるかもしれません。でもそれはあくまでプロの仕事だからで、その人の行動に対して対価を支払う人が最終的に扱いを決めるというところは避けて通れないんじゃないかとは思います。

と、こうやって考えると「何のために記録を残すのか」というのは色々だという当たり前の話に到達してしまいました。でも、ですね・・・

 

責任を取るための記録、責任回避するための記録

個人的に何かを記録する事は、それこそ日記でも写真でもブログでも何でも、最終的な責任はそもそも個人に帰属しているのでそれについて四の五の言われる筋合いは無いわけです。もちろんそれを公表する時点で色々といわれることは当然あるわけですが、それはそれ。問題はそれが何かしらの職務やら業務に関わる部分が絡むときの話。

たとえば業務上の何かの場での会話あるいは会議などでの記録が必要な場合とそれがあると困る場合があったりします。もちろん公式な場での話というのはそれ自体で何かモノゴトが大きく動いたり決まったりする種類のモノがありますから、それはキチンと記録されるべきだし、残されるべきだし、必要な立場がその記録を利用するべきだとは思います。もちろん状況によってその存在だけが知られていて内容は公開されないといった種類のモノがあるのを私は心情的に許容する人なのですが、何れにせよ後から検証できる状態にあることが判っていれば済むことってのはあると思っています。

ここでふと気が付くのが「記録があると取らなくてはいけない責任がある=記録がなけば責任の存在自体を立証できない」みたいな暴論にたどり着くケースがあるよねと言う話。いや、これは日常でもよくある話で、たとえば極少数の関係者だけでモゴモゴ話をして何かを確認したり決めたりするケースってのがこれにあたる判りやすい例かもしれません。たとえばタバコ部屋で顔を合わせた同士でモゴモゴとか、それこそ会議室にこっそり篭ってモゴモゴとか。もちろんそれぞれが良い悪いの話ではないのですが、その延長線上に一杯色んなケースが簡単に想像できる気はします。

因みに私自身、世の中の全ての事を公開せよとか、それが特に公人であれば尚の事、みたいな話にはあまり興味はありません。取捨選択できる状態は大事だと思うのですが、それを使命に生きている訳ではないので。もちろん自分の仕事や興味がある方向の件についてはそう思う事がなくは無いですが。

 

記録を取ることに対する責任というもの

これは逆に言うと、記録を取る役割を持った人の存在を許すかどうかだと思うんです。あるいは記録に残すべき場所であれば、そこでの行動や言動は全て記録として残しますという基本的な同意が取れているかというのが先に立つ話なのかもしれません。もちろん生の記録や議事録として残されるものとの間の違いとかはあるのは理解していますが、最低限その場の状況が残っていないと困る事が当然あるわけで、逆に言うと残っていると困る事も有るわけですし、困った事になった事例も枚挙の暇が無いわけです。これは別に今の状況だけでなく、ずっと昔からそうですから。

因みに何でそんな事を改めて思ったのか。たとえばちょっと前にTHE WALL STREET JOUNAL日本版で米原子力規制委員会の電話会議の記録なんてのを目にしたわけです。うむぅ、というほか有りません。ちなみにこの資料の中を全部完璧に理解できるほどの前提知識や英語力は持ち合わせていませんが、こういう記録が存在する事自体の良し悪しを議論する場合では無い場がある、というコトを改めて思い知ったわけです。記録が残っていないと絶対に駄目な場や事象というのがあるんですよ。

もちろん、そんな事は私ごときでも以前から十分に理解してる話です。
でも、でもねって思う事象に割りと最近遭遇したような気がするんです。なんとなく。

 

 

 

 

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