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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

節目を感じる力、そしてその前提となるコンテクスト

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別に大袈裟な話ばかりではなく、それでも生きている中で時々何かしらの節目に出会うのが人の人生。プライベートな話かもしれませんし、仕事上の話かもしれないし、一種社会的な状況かもしれません。言い換えると自分と言う個人にとっての節目である場合もあれば、そうじゃないけれど大きな流れの転換期と言う意味での節目かもしれません。もっとも、それらが自分にとって何の関係も無ければ別に「何かの節目感」を感じる事はないわけです。ただ、何年もたって後から振り返ると「あ~、確かにあの時のあれが・・・」みたいなのがあったりするのも事実。

そして、それらが自分にとって、あるいは社会にとって良い事なのか悪いことなのかという最終評価は時間の流れの中で固まってくるわけです。

 

個人的に思い入れがそれほどない企業のCEOの交代はそのときの話題としてしか感じないという普通の話

いや、これが別に例のAppleのSteve Jobs氏のCEOを辞めます話だけを指す話じゃないんですが、話題への関心と反応に個人差があるのは当たり前の話。ちなみに私自身Apple社の製品自体はそれこそAppleⅡの頃からリアルタイムで知っていますが、色んな経緯があって自分の周りに存在したことがなく、その後IT業界に長く身を置いた立場として動向はとても気にはなっていましたが正直な話として思い入れは全くないという人です。もちろんApple社への貢献のみならずIT業界、あるいは社会全体へのJobs氏の貢献やAppleという企業のプレゼンスの変化というのは理解していますし、私もその貢献を高く評価しますなんて上っ面の話をしたところで何にもならないのですが、非常に穿った見方をすると、既に以前から見えていたCEOの引退がここで発表されましたか、という印象だったりします。

こんな事書くと、関係各方面から色々とお叱りを受けそうですが・・・ でも、これは正直な気持ちです。

ただ、1つだけ言えるのは、たとえば1980年代とか90年代にはIT系の企業の多くに看板となるCEOやCTOがゾロゾロ居て、それらの人の個性や主張や技術への理解力が多くの企業のカラーとなって存在していたりしましたが、マーケットの状況も変わり、基本的にスターが引っ張る企業というのが中々存在し辛くなっている中、特にHardware部門を持つ企業としてのAppleにおいて一種カリスマとしての存在がずっとそこにあったというのは面白い状況だったとは思うんですね。

ほんでもっての、カリスマの終焉。

別に私ごときが断言する話じゃないですが、カリスマ性というのは後付で簡単に付くものではなく基本的に持って生まれたモノじゃないのか論を持つ私にとって、今後はAppleもカリスマが引っ張る企業ではなく、マネジメントチームが運営してゆく企業としての顔を強く持つようになるんじゃないのかな、と思ったりはします。もちろん、そこでトップにたつ人の顔は当然のようにそれなりにメディアに露出するでしょうし、歴史上に名前を残すことにはなるはずですが、そういう部分では大きく変わるんだろうなと思いますし、逆に言うと変われなければ逆にずっとJobs氏の亡霊を引きずる事にもなるわけで、ここらアタリが生き物としての企業の難しいところじゃないかとは思うんです。

そして、そういう節目に立ち会ってるという今の感覚。それが自分にとって、あるいは社会にとって良いことなのか悪いことなのかは、今はわかりませんが。

 

まぁそんな大きなことを思いつつ、自分の手のひらを見ると・・・

いや、別に今がどうだとか言う話じゃなく、自分のこれまでの人生を振り返ってみると、何かしらの節目のときに出会う人ってのは居るし、出会った事が節目になることもある。直接間接に何かしら接点のようなものが出来たと感じることもあれば、随分後になってそういう風にしか思えないような状況であったことを思い返すこともあります。

因みにそれが人ではなく、事象であったり何かしらの組織であったりすることもあります。その時点で「なんでこんな目に遭うんだよ」とか「なんでこの人にこのタイミングで出会ってるんだろう」とか思うような手合いの話ですね。で、それをその瞬間に感じることもあれば、誰かに指摘されて気が付くようなこともあるし、実は全然気付かずに流してしまってるのも当然あるんでしょうね。そこらあたりに誰かの作為的な意図を感じるというような神秘論に入るつもりはないのですが、事実そんな風に感じる事があるんです。少なくとも私の場合。

そんななか、突然何年か振りに旧い知人と連絡が取れて色々な理由で疎遠だったのが急に親密になるとか、何かしら色々と一緒にやりたいと思えるような人がこんなところにいるじゃんと気付くとか、そんな事が立て続けに起きる事があります。誰がそんな事仕込んだんだよと思うくらい。もちろんこれが人だけじゃなくて事象だったり状況だったりというコトもあって、何で自分がそこに居合わせてるんだよ見たいな事で驚くようなこともありました。今後もあるかどうかは判りませんが、少なくとも何度か遭遇したという記憶があります。

そしてそれやこれやが積み重なったのが今の自分なわけです。それが自分にとってどんな風に役に立ってるのかを断言できるほど達観していないのではありますが。

 

節目は節目。淡々と記憶にとどめつつ先へ進む意思

有名な芸能人の引退やら、政権政党の首班選挙やら、世界的なIT企業のCEO引退やら、北アフリカの政変やら、あるいは100年ぶりくらいの米東海岸の地震やらなんやらかんやら。自分が直接そこに関与してたら多分何かの節目感を持つでしょうし、そうじゃなければ何となく流れてゆく話ではあります。でも、後から考えるとその時にその周辺で何が起きていたかを後から考えてみたり、自分の周囲の人が何を言ってたかを思い出してみたり、そしてその時点で自分が何を考えていたのかなんて事を冷静に思い返してみると「あ、ここって1つのポイントだったんだ」って思うようなことが意外なほどあったりするわけです。少なくとも私の場合には、結構あります。

そういうところを意識しつつ世の中の流れをツラツラと眺めていると、どこかで何か引っかかってくる。前者で接しているのはインフォメーション、そして後者はインテリジェンス。別にスパイ大作戦じゃなくても、そういう区分けは出来ます。単に情報洪水の中で情弱云々とか人の事を心配する前に、自分の情報処理能力と分析能力をキチンと機能させていないと、自分が出くわす事情や事象や、その流れで出会う人との事を気が付かずに終わってしまう気がして、そしてそれはとても勿体無いという気がしています。

だからこそ、それらが自分にとって、あるいは社会にとって良い事なのか悪いことなのかという最終評価を拙速に下すのではなく、自分が持ち合わせてるコンテクストに照らし合わせて考えてみて、一旦記憶の倉庫に仕舞いこんで、でも必要なら取り出してくるような思考が必要だよねと思っています。今の単純な感情で物事を判断するべきじゃなくて、そこに至る意味を考えて、そこから先を更に考えるという意識。そして大きな転換点があれば、それが「節目」という考え方。

 

何を達観したような物言いをしてるんだって?いやぁ、別にシニカルになってるんじゃなくて、自分なりに冷静に物事、そして自分自身を見ていたいだけです。

 

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