タブレットにワクワクしない理由
最近キーボードなりトラックボールなりのネタが増えている私ですが、実はタブレット系に対して全く興味が湧かないという人でもあります。元々IT業界に入ったのが1985年。そのころ使っていたのがIBM5550で、そのあとPC/XTやPC/AT(互換機じゃないです。実物)。その後のNotePCの流れなんてのも全部自分の経験として持っていて、アラン・ケイがダイナブックを提唱した頃からの流れなんてのもその中のひとつだったりします。
で、当然ですが、過去のタブレットPCと呼ばれたものや、それ以外の業務用途を中心とした数限りないタブレット系のモノを見てきているんですが、それを踏まえつつ自分がPCやタブレット系のモノに全くワクワクしないというのは、要は全部なんだか仕事に近いところにあって、いわば単なる道具であって、それらを趣味の延長として見ることが出来ないというコトなんだろうなとな思っています。
でも、それは頭で考える事。実はもっと感覚的なところがあるってのに、ふと気づいたんです。
自分の手が邪魔、という感覚
ある意味キーボードが前提という環境に非常に最適化された私のスタイルの場合、画面上にキーボードが出てきて、それが画面を圧迫して狭くなるってのは、何だか嫌なんです。例えば今はキーボードが横からシャキン!と出てくるスマートフォンを使っていますが、使うときだけ出てくるから非常に精神衛生上良いんですね。でも、これが例えばiPhoneやiPodあたりがそうなんですが、文字を打とうとすると当然打つための「道具」が画面上にガツンと出てくるわけです。
いい悪いとかじゃなくて、私的にはなんだか嫌なんです。
またキーを打つ感覚が無いってのは、もちろん機構上当然ってのは判ります。流石の私でもそれくらいは理解してます。でも頭で理解しているのと体がそれを許容するのは別の話で、いまだにキーボードとしてはオリジナルのPC/ATの機械式キーボードが最高だと思ってる変態にとって、キーを打ってる実態感が無いというのはある意味致命傷です。
もちろんiPhoneやiPod、そしてiPadに代表されるようなタブレット系がメイン機となるような環境というのが成立するとは思わないのですが、自分のモノとして使う環境をどうしても想像できないんです。というより、むしろ他にいろんな役割に便利なものがあって、少なくとも不自由していないってのがあるのかも知れません。
コンサバ?
う~ん。そうかもしれません。でも・・・
WIRED VISIONで見かけた記事にうんうんと頷いてしまう自分
たとえば肌感覚の話で言うと・・・
タブレットを使うときは、ガラスのバリアーを通してインターフェイスを操作しているような感覚になる――もちろん、実際にそうなのだが。何千年という進化 によって、毛のない猿である人類は手を授かった。自分の手で作業している時に人間が持つ自然な期待は、触覚による本物のフィードバックが指にないことで挫 かれてしまう。
うんうんと頷いてしまいます。
もちろん好き嫌いの部分が大きい、非常に感覚的な話なんですが、自分的にはこの部分はやっぱり譲れない。叩き込むように、なんて打ち方をする自分が悪いのはわかっています。で、こんな事を言いながら、ひょっとしたら来月くらいに何気にタブレット系の何かを買って喜んでるかもしれません。でも、とりあえずこういう風に思っているのは事実。
まぁ、それもこれも、何か言いたくなるのは気になっている証拠ではあります。それはそのとおり。で、過去のタブレット系デバイスがどちらかと言うとキワモノ的な存在であった歴史を踏まえつつ、今後どうなっていくんだろうな?っていう気持ちがあるのも事実。でも最大の関心事は、私みたいなコンサバな堅物ですら自分の好みを180度変えるような何かが出てくることがあるんだろうかっていう所なのかもしれません。