そういえば「新人類」と呼ばれてた
山口さんのエントリーロストジェネレーションの生まれですにトラバ。世代間闘争(笑)が繰り広げられたブロガーの会合でまさに年代の話をしながら、確か自分は「新人類」と呼ばれた世代であったのを改めて思い出しました。
しらけ世代の後、バブル世代の前。でも世代って?
xxx世代というのは時の大人やメディアが付けるわけで、自分がある塊として呼ばれた時、「そう見えるんだー」くらいの意識しかありませんでした。今でも「xxx世代と言ってもねぇ」という意識はありますが、ただ逆に自分たちが「新人類」と呼ばれた理由については以前よりはわかるような気がします。
モノや事象に対する価値観については、なんだかある程度の区分けができそうな気がする
昭和で言うと30年代後半生まれの場合、たとえば「大きい事は良いことだ~!」とか「隣のクルマが小さく見えます」といったコマーシャルが記憶にあったりするわけです。親の世代は戦前から戦中の生まれで、終戦直後からあなたが生まれたころまでは大変だったけどねーという話は散々聞かされてきていていたわけです。そして高度成長時代には小学生だったわけで、さすがにそのころはモノが増えてきましたが、その世界はまさに「ALWAYS 三丁目の夕日」の前の時代であったりするわけです。
ただ、これは設定が昭和34年なので私が生まれるさらに前なのですが、基本的な状況は自分の一番古い記憶にある街の状況にかなり近いのもののような気がします。たとえば横浜のラーメン博物館の装飾もコンセプトは昭和33年。白い電話ボックスを見るだけで気持ちは40年くらい前にぶっ飛べます(笑
モノが(今と比べて)あまり無かったからこそ持っておきたいという意欲があったりするのかも
そういう育った環境を反映していろいろなモノに対する意欲が生まれてくるわけですが、そこで気がつくのが最近時々話題になる所有する意識についての話題です。最近もクルマに対する所有についての話がありましたね。私の場合、これは前にも書きましたが、エコだなんだという部分をまったく無視した気持ちの根っこのところで言うと、冷蔵庫は大きいのがえらくて、クルマは大きくて速いのがえらくて、でっかいスピーカーががえらくて、時計は舶来がえらくて、テレビはカラーがえらくて、ガレージは別棟がえらくて、そもそも家はでかいのがえらくて・・・ それを全部出てくるアメリカの70年代初頭のホームドラマ、たとえば「奥様は魔女」なんかは完全に憧れの世界だったわけです。「トムとジェリー」ですら、そうだったかもしれません。別にそれが良い悪いとか、実際のアメリカはどうだったのよとかは全然別にして、私の場合は所有できることへの憧れがあったのが、意識のどこかにあるんだと思っています。
もちろん、これは世代全体に共通する話ではありません。地域的なことやらなんやらが絡みますから一概に言える話ではないのは百も承知。
ただ、ひとついえるのは、自分たちの前に団塊の世代の塊がいるのはわかっていて、その世代と違う価値観がなんとなくそこにあって、就職したころにその違いを、一方は名前をつけるほう、一方は名前を付けられるほうに分かれたとき、私たちは「新人類」と呼ばれたわけですね。
やっぱり多様な価値観の存在に行き着くのか
いや、別に深いことを考えてる訳ではないのですが、そもそもみんな考えてること違うんだから、好き嫌いはあるにしてもとりえずその違いの存在は認めつつ、行く先をちゃんと決めて、一端決めたら文句言わずに行こうよと思ったりもします。
あ、これはブロガーの会合でそう思ったというわけではなくて、一般論ですよ、一般論。
しかし、海外とかのそもそも文化も言語も違う人との話だとわかるんだけど、なぜか国内での話しだと変になっちゃうんだよなと思ったりすることが、最近増えてきた気がします。
ま、そういうのに悩む時期が来てるのかもしれませんが。
すいません。意味不明ですね。いや、ちょっと悩みが多いもので。
※リンクと誤字を修正しました。