父の葬儀で初めて喪主をつとめました
おはようございます。
先週は不在中ありがとうございました。おかげさまでいいお葬式ができました。
===ほぼ毎朝エッセー===
先週は父の葬儀に多数のご列席、御香典、御弔電、御供花を賜りましてありがとうございました。人生初の喪主でしたが、おかげさまで無事に葬儀を終えることができました。父はe-Janの成長をとても喜んでいました。知り合いにまるで自分の会社のように自慢をしていたことが思い出されます。
父が元気に昨年末のe-Jan家族会でご挨拶させていただいたことがほんの2ヶ月と少し前です。逆に言うと、それまでずっと元気で、肺炎で入院をした最後の10日だけが病気の期間だったわけです。それはそれでとても幸運なことだったと思っています。
父は2月18日に間質性肺炎による緊急入院となりました。原因は不明でしたが、21日未明に変更した薬で、24日には「今回は危ないところだったねぇ」と回復を喜ぶところまで改善、一段落したと思いました。
ところが27日金曜日の夕方に緊急で呼び出されたときには、誤嚥(ごえん)によるタンの気管支への密着による呼吸困難が発祥。土日はタンの吸引で良くなったり悪化したりを繰り返したのですが、3月2日月曜日の朝、全体会議前に呼び出されたときには、かなり呼吸も苦しそうで絶望的な状況でした。
妹たちや私の妻子も集まり、手足が冷えるのを温めながら、脈と血中酸素濃度が徐々に下がる中、主治医に目配せしてから、スポイトで大好きなビールやニッカウヰスキーを口に含ませました。意識は無かったのでしょうが、アルコールで脈と呼吸が改善するあたりは父らしかったです。お昼の12時52分、主治医による確認があり、永眠となりました。
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さて、ご存知のとおり、葬儀はこれからが大変です。葬儀社を決めて、葬儀の日程をお寺と調整して、葬儀の内容を決め、知人への連絡などなど。いわゆるお葬式プロジェクトのスタートです。
父はもとより身内だけの葬儀、それも密葬のようなことを期待していました。さらには、父のお見舞いに行けなかった車椅子の母には状況と臨終をまだ伝えられていません。兄妹で手分けをしながらプロジェクトを進行しました。自分の担当はお葬儀周り。
病院には葬儀社の人が絶えず出入りして看護師からの連絡で動くようになっています。まずは病院から遺体を自宅あるいはどこかの葬儀社に搬送する必要があるからです。すぐにやってきてくれる手際の分かった人はありがたいです。元々あたりをつけていた実家近くの葬儀屋さんとの比較をして、結果的にはその葬儀社に一括でお願いすることにしました。決め手は、遺体を霊安室で預かってくれ、要望に応じて、お線香を事前にあげていいことでした。
午後5時過ぎ、寝台車で西日暮里の会場に移動します。到着してすぐに葬儀の打ち合わせです。途中、霊安室でのお線香などを上げながら、夜は9時過ぎくらいまで打ち合わせがありました。すべては瞬間瞬間のキメです。迷っていても仕方がない。ただし、極力簡素にすること、小さな規模の葬儀にすることを心がけながらいました。こういうことは仕事と似ています。
運が良かったのは一人で対応していたこと。型にはまることが嫌いだった父の意志もあったので、親戚筋のご意見も聞かずに物事を決めることができたことでしょう。
一方、苦戦したのが火葬場の日程でした。季節がら、かつ、近所の火葬場のひとつがリニューアル工事中だったので、残ったひとつの火葬場に需要が集中していました。火葬の開始時間が金曜日の朝という、不便な時間になってしまったのにはそういう理由がありました。
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次なる課題は、車いすだったのでお見舞いにも来られなかった母への通知と、知人への通知です。御寺とも打ち合わせをしておく必要があります。母への連絡が知人経由になると目も当てられません。そこを伝えるのは子の義務でしょう。そういったいきさつもあり、知人への連絡は翌日午後まで控えさせてもらいました。
翌日3月3日火曜日、母のいるところに兄妹3人で集まります。平日に3人が集まるのは非常事態であることを察し、我々の姿を見た母はすぐに「死んだ?」と一言。うなずきながら、いきさつを話しました。母にはすぐに知人が訪ねてきたので、そこは任せて、その後はひたすら、皆様への連絡です。それぞれに驚きやお悔みの声、特に親しい人たちへの連絡は辛いです。
午後にはお寺に行っての住職との打ち合わせ。この時点でほぼやることや日程は固まりました。水曜日に納棺の儀、木曜日にお通夜、金曜日に告別式です。
ちなみに納棺の儀とは、体をきれいに洗って、服を着せて、お棺に入れる儀式で、ほぼ身内のみで行うものです。丁寧にあえて無表情に、担当者が手際よく進めてくれます。こういう仕事をしている人たちもいる。「おくりびと」という映画を思い出しました。その場で急いで娘に送ってもらった父の生前の写真をスマホで見せながら、死に化粧をしてもらい、生前のイメージがあまり崩れない仕上げとしてもらえました。この儀式が心情的には一番つらい時間でした。
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あとはお通夜や告別式。何名にご参列いただけるかが不明な中、懐かしい親戚や、古い知人などに、喪主席でご挨拶させてもらう状態でした。
お通夜の前には、妹たちは思い出の写真を廊下に貼ったり、お花の名札の順番を決めたりと、独特の間があります。多分例外的だったのが、宮内庁から連絡があり、天皇陛下から御香典、そして皇太子と皇太子妃からは御供花をいただけるとのことでした。受取人は喪主である必要があるとのことで、その受け取りをしました。皇太子殿下からの弔意を、伝達の人が伝えてくれたりもしました。父は、天皇家や様々な国の国王たちにも特に態度を変えずにいつもの調子でお付き合いしていたので、逆にその分印象が深いのでしょう。
お通夜の後は三々五々。ただし翌日の告別式が朝9時前からあり、平日なので電車の混雑なども予想されるので、念のため自分は近所のホテルに泊まりました。田舎でよくやる、お通夜のときの線香番やその周りで飲むといった儀式はありません。
そして、告別式の朝です。準備を整え、どの御弔電を読むのかを選ぶ作業に入ります。ここも妹夫妻と3人で手分け、いいバランスのものが選べます。「やれやれ、一安心」と思っていたところに、葬儀の担当者から一言「ご出棺前のご挨拶はお考えいただけましたか?」と。すっかり忘れていました。瞬間の動揺が見えたのでしょう。担当者の方はすかさず、「これがよくつかわれるひな型です」と、紙を渡してくれました。読んでみると苦手なパターン。丁寧かつ難解な葬式用語と日本語独特の定型文。思わず血圧が上がりました。
「これでは暗記もできないし、心もこもらない」。開き直って、いつものように、このご挨拶をする理由から考え始めました。父がどういうことをやってきたのか、どういう人物であると私たちから見られていたのか、どういう亡くなり方をししたのか。この3点にポイントを絞り、時系列的なストーリーに頭の中でまとめてみました。お棺に花を詰め、ご挨拶も終わり、霊柩車で会場を後にします。
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告別式の後の火葬、そして精進落としの親族での食事を済ませ、実家に戻り、遺骨を前に一緒に来てくれた父の友人や親せきとウィスキーで乾杯。ゆっくりまったりするはずでしたが、常陸宮殿下からの後にお花が弔意とともに届いたり、お葬式に間に合わなかった人たちが次々とやってきて、その対応だとか、一人ひとりに写真をお見せしたりしました。
四十九日まではお寺の本堂にお骨を預かってもらうことにしたので、夜お寺に訪ねて読経してもらったり。なんとも忙しい金曜日でした。そしてそれが3月6日、e-Janの15周年の創立記念日だったのです。「夕方には暇になっていると思うのでパーティーは開けると思うよ!」と、パーティーの開催を可能だと読んでいた自分の浅はかさに気がついたのでした。
皆様、いろいろとありがとうございました。
母からケータイのメールでもらった文章を引用します。
『一連の指揮大変ご苦労様でした。よいあいさつだったしほんとうによい式でした。私たちの最後の会話は、「よい人生だった。こどたちは宝だった。りっぱに育ってくれてありがとう」というものでした。私もそう言って死ぬでしょう。お疲れ様!ゆっくり休んでださい。』
改めて涙が出てきたのでした。