理不尽な権威や罰が必要悪だと思ってしまう理由
おはようございます。
雲が低めの空。湿度が若干高めに感じます。
===ほぼ毎朝エッセー===
検証アルバイトをしてくれているKさんとのDR⇔朝メやり取りから。
(DR:日報、朝メ:社内【朝メール】でのコメント返し)
Kさんは有名国立大学の体育会ボート部、来春からは大手不動産就職です。
K「あと10日で部活を引退します。
世代交代で部の雰囲気も変わるのでしょうが、上下関係の緩さや
OBとの良好な関係は引き継いでいって欲しいと思います」
私「一抹の寂しさを感じますね。
上限関係が緩い体育会は珍しいのでしょうか?
本来あるべき姿だと強く思います」
K「僕も同意見です。
ボート界や、うちの大学の体育会を見てる限りだと上下関係の厳しい部は少ないですね。
アメフト部やラグビー部は厳しいイメージがあります」
一方、駅伝で有名な私立大学の駅伝部出身の社員K'さんの、あるときの
3分間スピーチでは、信じられないような上下関係や罰が語られていました。
(3分間スピーチ: 毎週初日、全体会議の前に持ち回りで実施するスピーチ)
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「この違いは何故なのだろうか」
「理不尽な上下関係や罰というものは必要なのだろうか」
ずっと疑問に思っています。確かに軍隊では個人の自主性には任せません。
スポーツでもパフォーマンスが出ない人には、その分練習を課して、
強くなることを望むのは当然です。
人はすべて自分で考えて行動すると、やはり楽な方に流れます。
才能がありそうな人、伸びそうな人についてはある程度強制力をかけて、
伸ばしてあげたいと思うのは指導者の心理です。飴と鞭。鞭としての罰。
強制される側もその方がある程度心理的に楽なものです。
それなので、強制をする。そのツールとして上下関係や罰があるのです。
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一方、社会は権威や罰で、犯罪に対しても同じことをしています。
罪を犯したとき、権威が命じてその償いに罰を受けさせる。
それらが無ければ、多様な価値観の人々で構成される社会が制御できない。
だから権威と罰が存在するわけです。あるいは罪人には、その犯罪の分の
苦しみを望む深層心理もあるようです。
そして、権威や罰は、その同質性のために、いつの間にか指導とすげ変わります。
すげ変わりやすい性質を持っているのでしょう。
本来、「強くなって欲しい」といる心理が、弱い状態の人を見ると、
いつの間にかまるで犯罪者を扱うような気持ちへと変質していく。
そしてこのすげ変わりになかなか気がつかないのです。
気がつかないから、スポーツの世界でも権威や罰がはびこってしまうのでしょう。
これは会社などの組織においてもよく陥るワナだとも思います。
パフォーマンスが出ない人を鍛えたいとする気持ちがある。
それがいつの間にか権威や罰を与えることへとすげ変わってしまうというワナ。
「厳しさをもってリードすることを、権威や罰で誘導してはいけない」
これは意識をして気をつける必要があります。
組織が拡大してくると、より意識して取り組むことが大切だと思うのです。