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ビジネスモバイルITベンチャー実録【朝メール】から抜粋します

下田は横浜の5年前に開港していた

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【朝メール】20090728より__

===ほぼ毎朝エッセー===

□□下田のうんちく

先日土曜日、健保の契約旅館である菊水館という南伊豆にある宿に行ってきました。プールを独占できるなかなかいい宿でした。その帰りにちょっと足を延ばして下田に行きました。

ペリーの黒船が浦賀に来た後に最初に開港されたのが下田だそうです。そう、伊豆半島の最南端の港です。155年前のことです。下田はもともと東西を船で結ぶ際に立ち寄る港町として栄えていましたが、陸路は天城山という難関が立ちはだかっていたために、幕府が開港する十分に隔離された場所として選んだのでしょう。

ゆえに下田には日本最初のアメリカ領事館があります。玉泉寺というお寺の脇に建てられ、ハリス公使が駐在していました。玉泉寺には病気で寝込んだハリスさんに与えるために日本で最初に牛の乳を絞った場所や、肉を食べるために牛を屠殺した場所などに記念碑が立っています。

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牛の乳を飲んだり肉を食べたりすることに当時の人たちが驚いている様が目に浮かんで思わずにやりとしてしまいます。ちなみにその牛乳の記念碑は森永乳業スポンサーでした。森永が下田から発展したというのは知りませんでした。

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アメリカ人は下田のあまりの不便さから、別な港の開港を迫り、下田開港の5年後、つまり150年前に、横浜が開港されたのだそうです。なるほど、そういう順番だったのですね。開港のニーズは当時のアメリカが強烈に実施していた捕鯨だったというから面白いです。時代の流れを感じます。

この類のうんちくを聞きながらその街を見るのは何とも楽しいです。
そして、うんちくを聞かせてくれる人はローカルの人がいいです。

下田にはそう、e-Janを設立する頃にいろいろとアドバイスをいただいた菊川さん、別名、ピントール・ド・ドミンゴ (日曜画家)さんが、リタイア後の住居を構えています。携帯電話に入っていた電話番号で当日かけてみるといらっしゃいました。急でしたが遊びに行くことができ、おかげで思わぬ見聞が広がったのでした。ありがたいことですね。

★起業をするときには必ずいろいろな人のお世話になります。自分にとって、東レの菊川さんは、踏ん切りをつけるきっかけを作り、その後、指導してくれた人でした。

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★するとすぐに朝メールを読んでくれている菊川さんからコメントがきました。

【朝メール】20090729より__

以下引用==>

Subj: よく来てくれました

史郎くん

 下田くんだりまで本当に良く来てくれました。実にうれしかった。いつもは、毎日「朝メール」を読んで、e-janの成長と会社の活気ある状況を読ませて貰って、「よし、よし」とまるで自分が会社をやっている気分で愉しませて貰っています。e-janメンバーも、毎日その報告を見ていると、なにか仲間のような気分で、その内容を読ませて貰っています。なかに病気などで身体を壊す人がいると、「いそがしかった自分の昔を見るようで」気になって、心配までしてしまいます。

 昔、東レデュポンの僕の部屋に創業の相談に来てくれていた史郎くんとの会話を思い出します。「是非やれ!」と無責任に創業をけしかけていましたが、内心はその時もその後も心配でした。しかし、いつだったか(3年前ぐらい?)、e-janはまだ赤字でしたが、「もうTake-offした。心配なし」と僕のビジネス経験から判断て、その旨メールしたと思います。それ以降は僕の予想通りの展開ですが、これはすべて史郎くんの情熱とすばらしいメンバーの努力の賜物です。うれしいことです。

 事業は緻密な想像力・創造力・意欲と共通の目標を理解した参画意識の高いメンバー構成の果実です。どんな事業であれ、いずれは saturateする時期もきますが、扇を留め金を支点として広げるように色々な展開も見えて来るでしょう。楽しみにしています。事業がつねにあらゆる局面で100点満点を続けることはない。しかし80点以上でないと事業は継続しない。「ほどほど」というのが難しい。それは人生も同じ。

 僕は朝日新聞のコラムの最後は「この10年を要約すると」の表題で纏めましたが、その最後に「この10年を要約すると、‘日本の変化は遅々たるものである’と断じざるを得ない。昨今、青少年犯罪の多発に目を覆わざるを得ないが、私の周りには熱意・信念に富んだ優秀な若者も沢山いる。彼らの今後の活躍に期待し、人間の理性と困難を克服してきた歴史に信頼を託し、筆をおく。」と書いています。ここで言う「若者」とは史郎くんやe-janのメンバーのような人達のことです。

 僕は会社時代、国内外でいろんな仕事をし、コラムニストもやり、多忙を極めました。会社を引退するに当たって、ある種の絶望感(今の日本の老害を含む志の低い政・財界の状況)もあって、老後は自然と共に行きようと、下田に隠居、絵三昧・読書三昧を決め込んでいますが、「来るものは拒まず、去るものは追わず」で、今度の史郎くんの訪問のように「朋あり遠方より来る。また楽しからずや」は大歓迎!!またの訪問を期します。それにしても人間は「健康が第一」ですよ。

菊川 のぼる Noboru Kikugawa

<==以上引用終わり

ありがたい励ましのメールでした。力がわいてきます!

でも、実際そうなのです。菊川さんが1988年、東レデュポンの監査役として異動して来られなかったら、自分も起業に踏み切っていなかったと思います。そもそも東レへの入社も菊川さんが1986年当時人事部長をされていたのが理由でしたから。その分、心配をかけてしまっていたのですね。事業をやるなどと息巻いていても、それは周りの人たちに多大な心配をかけて、さらにさまざまなサポートをもらいながらできていることなのだと実感します。

菊川さんは下田で、絵を描き、工房で作品を作り、庭の手入れをして野菜などを作り、アマゾンから購入する本を読み、BMWのミニクーパーを乗り回し、おいしいコーヒーをデロンギのコーヒーマシンで入れて楽しむ、実に創造性豊かな生活をされていました。その創造性と粋な生き方を尊敬してしまいました。「ああいうカッコいいリタイア生活を送りたい!」と思いました。

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