メルマガ連載「ライル島の彼方」第8回 「はたらく」ということ ~私が会社をやめた理由(4)~ 転載(2015/4/20 配信分)
この記事は、メルマガ「デジタル・クリエイターズ」に月1回連載中の「ライル島の彼方」の転載です。
第8回 「はたらく」ということ ~私が会社をやめた理由(4)~
( 前回からの続き )
1996年10月、地域ポータルサイトの原型となるオンラインマガジンを公開。
当時の新技術を使ったページは、Yahoo!Japan の各技術カテゴリの上位に登録された。
日々雑文を書いて更新。アクセス数は堅調に推移した。
だが、Web業務が進むにつれ、社内・社外問わず「ディスコミュニケーション」を意識することが増え始めた。
今おもえば、「未来(現在)のネット民の常識」 vs「現在(当時)のリアル民の常識」に、大きな距離があった。
それを縮めることができなかった。この一言に尽きる。
今回から3回にわたって、その問題を浮き彫りにしてみる。
技術革新によって時代が動くとき、ターゲットとする「時間」の違いによって、どのような軋轢が起こるかを記録しておくことは、今後、同様のインパクトをもつ変化に見舞われたとき、読者の参考になるかもしれぬから。
■発信内容 ~グローバルか、ローカルか~
同僚たちは、折にふれ、それぞれの顧客に、オンラインマガジンへの情報提供を呼び掛けてくれた。
しかし、重いラップトップと固定回線しかない時代、画面を見せてのプレゼンができない。
Webサイトの可能性を伝えることは難しかった。
前回記事に、「情報収集と、制作技術。どちらが欠けても、インターネットの事業化は頓挫する」と書いたが、制作技術はあっても、掲載する「情報」が圧倒的に不足していた。
「地域情報を発信することの是非」が問われ始めた。
発信する情報と、発信先の組み合わせとしては、大まかには、次の4通りが考えられる。
- グローバルな情報を、ローカルに発信
- グローバルな情報を、グローバルに発信
- ローカルな情報を、ローカルに発信
- ローカルな情報を、グローバルに発信
世界中がつながるインターネットなのだから、「グローバルな情報を、ローカルに発信」という考え方が、当時のマジョリティだった。
是非を問う声があがるのも無理はなかった。
これに対し筆者は、「ローカルな情報を、ローカルに発信(地域密着型IT)」「ローカルな情報を、グローバルに発信(世界に居住する地域出身者へ故郷の情報を発信、現地での地域情報宣伝に期待する)」にこだわった。
世界をつなぐネットだからこそ、情報の信頼性が最重要になる。
真偽の不確かな情報が氾濫するなか、ネットから仕入れただけの知識ではない、発信者の体験こそが閲覧者の信頼性を勝ち取る。「足で稼いだ情報」を発信するには、発信者の土地勘のある地域に限定した方が安全で確実、と考えていた。
ローカル情報の発信は、観光客誘致・特産品輸出・防災情報共有・住民問題解決・産学官交流に役立つ。少なくとも、1996年当時~2026年の30年間は、有効だ。
ただし、人類が宇宙へ進出する時代を迎え、グローバルとローカルの境界は曖昧になっていく。
境界のない新しい世界が拡がったときには、「グローバルかローカルかを区別してしまう旧い思考」を切り捨てなければならない。
■立地条件 ~地方立地は有利か、不利か~
少なくない地方在住者の口癖に「地方では無理」というものがある。
ある日、社長と雑談中、何気なく発せられたことばに衝撃を受けた。「地方(四国)にいて、東京の仕事を(受注)できるはずがない」
この一言が、退職を意識し始めるきっかけになった。
筆者は、インターネットが普及すれば、全国各地や、ひいては海外からの受注も可能になるはず、と、心躍らせていた。「できる可能性がある」ではなく「できて当然」だと思っていた。
そもそもインターネットのなかった時代でも、地方で作ったものを、東京へ、世界へ、発信することは、珍しくはなかった。
筆者が手掛けたデザインや記事は全国で通用していたし、これを評価した一部上場企業からの依頼で、タイアップキャンペーンを企画したこともある。また、前勤務先で担当していたサービス・マニュアルは、北米の大手メーカー向けだった。
ましてやインターネットが発達すれば、「地方 対 東京」ではなく、「自分のマシン 対 世界」になる。
山頂や深海で働く人も情報を発信できるようになる。
そして、情報があふれていない場所にいるほうが、静かに考えることができ、より正確に未来を予測しやすい。むしろ、(計算機に翻弄されないための)ヒトならではの深い思索をするには、地方立地の方が有利でさえある(★1)。
重要なのは、企画力と、丁寧で正確な制作姿勢ではないか。そして、勤務先の同僚たちは、その両方を持っていた。
今おもえば、社長は社員全員とその家族の生活を背負っているわけで、時には弱気になることもあったのだろうから、たった一言に衝撃を受けて諦めるのではなく、資料を作成してプレゼンすべきだったのかもしれない。
ただ、釈然としない部分は今でもある。筆者にできなくても、他の人ならできることは、山ほどある。逆に、他の人にできなくても筆者にできることも多少はある。 スキルも経験もパーソナリティも異なる人ならできるかもしれないのに、なぜ自分の見聞きしてきた情報に基づいて断定するのか?
そういう思いが、わずかながらあった。過去の常識は、更新され続けられるものだ。
あれから20年、「自分のマシン 対 世界」という見方は、もはや時代遅れである。
惑星間通信は言うに及ばず、地球においても「自分 対 世界」「自分の脳内+他者の脳内 対 人工知能」となったとき、我々は「 "いまここ" 意識」を捨てる用意を始めなければならない。
■対人関係 ~オフライン交流から、オンライン・コミュニティへ~
オンラインマガジン公開から半年後の、1997年4月。 コンテンツの対象エリアを拡大する方向で、サーバーを管理する地域のプロバイダと合意、その後、業務提携した。
1997年8月には、広いエリアの情報を収集すべく、プロバイダの会員有志からメンバーを募って、オンライン制作チームを結成。
集まったのは、犬とその飼い主の高校生(高校生とそのペットの犬、ではない)、美しすぎる女性技術者、地域瓦版の主宰者、シンパパ会社員、など、その属性は多様。それぞれの会員たちに面識はない。
筆者は裏方として連絡業務と制作管理を担当した。
オンライン・マガジンで収益を上げるしくみはできていなかったから、制作も無償である。
つまり、彼らは無償で参加したのだ。 自宅に回線を引き、当時は高価だったPCを購入し、高い通信料を払い、余暇でHTMLを独学していた人たちである。彼らは、個人の時間と費用を使うことを、ためらいはしなかった。
それは筆者も同じだった。勤務先の環境が Mac + Navigatorであるため、Windows + IE 対応の作業は、自宅で行っていたのだ。
筆者は「コミュニティの無償の活動の積み重ねが、その熱意が、新しいビジネスを生み出す可能性がある」と、信じていた。
今では誰でも、とりわけITエンジニアは、それが事実であることを知っている。
(本連載を配信しているメルマガ自体も、ひとつのコミュニティといってもよいものであり、デジクリ文庫出版につながっているではないか。)
だがインターネット黎明期の日本で、無償のコミュニティの価値を理解している人は、多いとはいえなかった。
なにしろ、それまで、新規ビジネスは、リアル交流から「のみ」生まれていたのだから。
仕事を獲得する場として、酒の席やパチンコ店が機能していた。つまり、オフラインにて有償で交流するところから人脈を築いてビジネスにつなげるのが常識だったのである。
オンライン・オンリーよりも、リアル交流のある方が意思疎通をはかりやすい面があることは否めない。
だからといって、協働にリアル交流は必須ではない(たとえば、筆者は面識のない編集者と多くの仕事をしてきているし、本メルマガの柴田編集長との間にも面識はない。)
そして、コミュニティは変わっていく。
リーダーはおらず、メンバーの「手続きを経ての参加脱退」は「思考による有機的な接続|切断」へ。
物理的に、新しいシステムに親和性のある脳を持つ個体が、生き残っていくだけである。
■伝達手段 ~話しことばから、書きことばへ~
オンライン制作チームのメンバー間の連絡手段は、主にメールだった。
提携先のプロバイダの担当者、読者、当時請け負っていたWeb制作業務の顧客との連絡手段も、メールであった。
書きことばが、話しことば以上に使われる時代になるのは、時間の問題だった。
ネットワークが拡がる過程では、データに基づく思考、論理的な意見交換が必要になり、その場限りの曖昧な話しことばよりも、記録の残るテキストがもとめられるようになる。
社会的な背景もあった。1997年には、我が国は、すでに少子化社会に突入していた。密な触れ合いの少ない幼少期をすごす若い人たちが増えれば、内向性は増し、テキストを介したやりとりを難なくこなすネットユーザーが増えることは明らかだった。
とはいえ、まだまだ電話や訪問でのコミュニケーションが主流の時代。
メールでの打ち合わせは、打ち合わせにあらず。打ち合わせは、お互いに顔をあわせて行わなければならない。PC前に座ってネット越しに行う交流は仕事の一環ではない。―――そういった考えが蔓延していた。
メール本文に業務以外の内容を書くのは不適切である、と捉える人々もいた。
旧来のオフラインの方法であっても、営業部員では、ビジネスの話だけではなく、世間話をして、交流を拡げ、人間関係を築いていたはずなのだが。
対面でなければ世間話をしてはならない、などと言っていたら、出会える人の数は限られてしまう。
インターネットはこの問題をクリアした。
さらに伝達手段は多様化する。
FTPからリモートデスクトップへ、今やローカルマシンとクラウドの境界すら、意識のうえでは曖昧になることがあるだろう。
LINEが当たり前の世代には、「メール」を知らない人さえいるという。
入力方法も、テキストから音声や動作へと変わり、そのうち思考の直接伝達が始まる。
自分が今考えていることを意識してみること、思考の流れを制御してみることを、今から始めても遅くはないほど(6年先では遅い)、技術進化は加速しているのだ。
■境界線 ~ビジネスとホビーの境界の引きかた~
オンラインマガジンの編集人のコーナーに雑文を書いて、筆者は日々更新を続けていた。
が、Macオンリーの勤務先のマシンでは、IEに特化したコンテンツを作成できず、表示確認もできず、その技術情報も書きにくい。
そこで、1997年3月、bekkoameに、120ページからなる個人サイトを開設し、オンラインマガジンからリンクを張った。
どのみちビジネスとホビーの境界なんぞは不明瞭になっていくのだから、ビジネスに役立つ情報を個人サイト記載したり、個人の趣味をビジネスサイトの運営に生かせれば、一石二鳥ではないかと考えていたのだ。、
ところが、オンラインマガジンが公共性を帯びるにつれ、私設Webサイトのコンテンツにも「公」の立場がもとめられ始めた。
これが筆者には堅苦しく感じられた。
個人ブログなどに「投稿は、勤務先の公的見解ではありません」という一文を見かけることがあるが、今はその1行で済む。なぜなら、多くのネットユーザーがブラウザを操作でき、リンク先のWebサイトを異なるWebサイトとして区別できるからである。
今になって思えば、ネットユーザーがまだ少なかった当時は、同じPC画面上に表示されるページは、同一視される可能性があったのかもしれない。
いまや、個人の趣味の成果をつぶやいたりYouTubeで公開すれば、ビジネスが舞い込む時代である。料理やペットが本になる。個人の趣味でセレクトしたユーズド品が売れる。ビジネスとホビーのあいだには、セキュリティ上の境界さえあればいい。
どのみち思考だだ漏れ社会には、著作権の定義すら変わるのだ(★2)。
我々は身の安全と当面の自我を守りつつも、境界の失せる世界に慣れていかなければならない。
■識別子 ~本名とハンドルネームと匿名の使い分け~
筆者はハンドルネームで個人サイトを運営しており、プロバイダの担当者やオンラインマガジンのメンバーとも、ハンドルネームでやりとりしていた。
Webサイト制作業務では、C.I.から始め、相互リンク先の確保、プレス発表のセッティング、PR活動まで、一貫して行ったりもしたが、対外的には、それらの作業もハンドルネームで行っていた。
文章の力だけで誠意と可能性を伝えてみせる!という意気込みでメールを書けば、公的機関からリンクしてもらうことも、プレス発表時に披露する祝電メールを、何のツテもアテもない大手検索エンジン会社から頂戴することも、可能だった。
それほど、インターネット黎明期は、安全で、呑気で、互いに疑心暗鬼になることのない、希望に満ち溢れた良い時代だった。
Webサイト制作者自体が少なかったから、Webの可能性を信じる同志のような連帯感もあったような気がする。
そういう時代だったから、どのサイトのWebマスターも、見知らぬデザイン事務所の一介のデザイナーのメールに、きちんと目を通して、誠意ある対応をしてくれたのだ。
ハンドルネームを使った、属性情報を表に出さない交流は、地位・名誉・性別・学歴・居住地・業種の壁を超える。
そうしてこそ、専門性の境界は揺さぶられれる。そう考えていた。
さらには、どのみちハンドルネームで仕事をする時代が来るのだからと、ハンドルネームだけの名刺も作ってしまった。
オンラインマガジンの業務提携の打ち合わせの席で、その名刺を配った。
プロバイダ側の人たちはIT業界人であるから、面白がり、笑って受け取った。
ところが、ハンドルネームを持つということ自体が、社会的属性に依って立つ旧来の慣習の中で生きる人々には、理解されない行為だった。
今では、社会的地位の高い人や、影響力のある人、大企業の経営者でさえ、ハンドルネームを名乗り、発信し、末端ユーザーにもその名で呼ばれ、おちょくられる。ハンドルネームの露出度は、人気のバロメーターのひとつでもある。
本名だけの時代から、本名とハンドルネームの使い分けの時代を経て、本名・ハンドルネームに関わらず、署名と匿名が使い分けられる時代になった。 そして、絵や音の商標登録が始まった今、(読みかたの分からない名前をも超えて)絵や音の名前が普及していく。
さらに、マイナンバーでの識別を超える世界、先の連載「データ・デザインの地平」で述べたような、一意なヒトとひとつの識別子が1対1で結びつかない混迷の時代に突入する。
「社会的な私」は不変ではない。その上に安住できるわけではないのだ。
次回は、当時の技術とデザインの事情について、コラボレーション・ユニット PROJECt KySS の結成経緯もまじえて述べる。
(次回に続く)
★1最新の情報を「入手した」ということは、誰かが既に考えて発信した情報を、ショートカットで「手に入れた」にすぎない。口を糊することには非常に有効だが、それ以上のものではない。まっさらの情報に見い出されたければ、自分自身の中に分け入り、自分自身に見い出されるしかない。そして、それは、考える自分さえいれば、どこに住んでいても可能なことなのだ。
★2 過去の連載参照。データ・デザインの地平「第7回 脳活動センシングの進化が作曲を変える」「第39回 その記事は『社会的に』正しいか?」
バックナンバー
「はたらく」ということ ~私が会社をやめた理由(1)~ 転載(2015/1/26 配信分)
「はたらく」ということ ~私が会社をやめた理由(2)~ 転載(2015/2/23 配信分)
「はたらく」ということ ~私が会社をやめた理由(3)~ 転載(2015/3/23 配信分)