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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

メルマガ連載「ライル島の彼方」 第5回 「はたらく」ということ ~私が会社をやめた理由(1)~ 転載(2015/1/26 配信分)

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この記事は、メルマガ「デジタル・クリエイターズ」に月1回連載中の「ライル島の彼方」の転載です。

第5回 「はたらく」ということ ~私が会社をやめた理由(1)~

終身雇用は崩壊したが、転職者への風当たりは弱まった。
職場は海外に拡大したが、在宅勤務も可能になっている。
働きかたの見本はなくなったが、自分で働きかたを選べるようになった。

成功した人々は、好きなことだけやれ、と、説く。
そうした先達の声を鵜呑みにしてはならない。それは、働き方のひとつにすぎない。

筆者は、自分のやりたいことや、好きなことよりも、勤務先や取引先や家族からもとめられたこと、社会の中で将来求められるようになっていることを、優先してきた。しなければならないことを、黙々と実行してきた。
そうした働き方をしている人は、少なくないだろう。

人がエネルギーを他者に分け与える、それが「はたらく」ということではないのか?
有償労働も、家事や介護や育児も、ボランティアも、それは「はたらく」ということ。
ヘッセ「シッダールタ(高橋健二訳、新潮文庫)」から引用するなら、「めいめいが受けとり、めいめいが与える。人生はそうしたものです」なのである。

だから、エネルギーを与え過ぎて枯渇するなら、働きかたを見直した方がよい。

水の合わない職場からは、静かに去ろう。
睡眠時間を確保できないなら、過労死の何歩か手前でブレーキをかけるべきだ。
もしもハラッサーと関わらざるをえないなら、心が壊れる前に即時撤退するほうが賢明というもの。
人生は短い。別の道を行こう。

前回は、退職・開業・事業継続に必要なことがらについて述べた。今回は、サラリーマンの転職について、実体験を書いてみる。

■テクノロジーのない職場から、去る

筆者は、開業するまでの10数年間は、ごく普通の、サラリーマンだった。

最初の職場は、制作会社だった。
フリーで印刷媒体の仕事を始めていたが、家庭の事情により帰省して正社員の職を得た(★1)。

新入りである。さまざまな作業が降ってわく。
DTPなどまだない、手作業の時代である。どのような作業も、マンパワーありき。
社長や先輩の無茶ぶりに応じていたら、イラストレーターとして入社したはずが、絵以外の仕事の方が増えてしまった。

広告などのグラフィック・デザインをするようになった。それは後に、DTPデザインからWebデザインへ、アプリのデザインへとつながっていった。

納期がタイトなときは、外注先の印刷会社に出向いて、フィニッシュワークを手伝った。工場の折り機や梱包械を操作した。地方紙地方局の代理店だったため、エリアサービスの作業を手伝ったこともある。深夜、同僚たちと共に、刷り上がった印刷物を届けて秒速オリコミ。

こうした現場作業を体験することにより、前工程が押した場合の後工程の苦労を知ることができた。
だから、筆者は、連載の締め切りを一度も落としたことはなく、開発案件の企画においても、プログラマが寝食忘れて働かなければならないようなスケジュールを組んだことがない。

印刷媒体と連動するイベントの、企画運営スタッフも経験した。こうした経験があったから、XML黎明期のユーザー主導イベントには、XMLユーザーとしてというよりもイベント業務経験者として取り組むことができた。

ローカルメディアでコンピュータ特集を組むことになったときは、パソコンを使ったことのある社員が筆者しかいないという、それだけの理由で、取材未経験にもかかわらず担当することになった(★2)。それ以降、執筆も仕事のひとつになった。

なにごとにも一生懸命取り組めば、経験という貯蓄ができる。それが後に役立つことがある。

短期間のうちに、印刷物の制作工程の1から10までを経験することができ、仕事の幅も広がった。
小さい会社では、業務が細分化されていないから、全工程を見渡せるというメリットがある。
待遇面でのデメリットと、得られる経験というメリットを比較して、後者の方が大きいなら、勤めてみる価値はある。

だが、この会社、筆者は、1年ほどで退職した。
転職を考え始めたきっかけは、手取りの4倍という親の入院費に腰を抜かしたことだが、退職を決意した理由は、職場の空気に違和感を感じ始めていたことである。
その違和感の正体とは、テクノロジーの香りがないことだった。

当時は、学校も職場も、文系・理系・芸術系に分かれており、それぞれの領域に踏み込まずに専門性を守ることが、良識とされていた。
今でこそ、コードでヴィジュアルを制御するアート作品のようなデザインは当たり前に見られるが、昭和の時代の我が国では、テクノロジーとアートとヴィジュアルデザインは完全に分断されていたのだ。
デザインとは、色や形や配置を最適化する作業であり、その言葉が、本来の「設計」の意味で使われることはなかった(★3

そうした、文・理・芸術の混じり合うことのない空気の中に、長居することはためらわれた。

■テクノロジー・オンリーの職場を通り過ぎる

職業安定所(現ハローワーク)で、エンジニアリング会社の技術職の求人情報を見つけた。退職後2週間で、ツナワタリ転職。

ここでは、電化製品のサービス・マニュアルの編集に従事し、ときどき、取扱説明書のテクニカル・イラストを描いていた。
連日、製図版より大きい回路図を引いてチェックしていたら、脳が複雑な蜘蛛の巣に慣れたらしい。後年、WebサイトやWebアプリの画面遷移図を作成する際に役立った。

また、"Lチカ"ならぬ、"7セグメントチカ"の社内研修により、大学時代、興味半分で受講したFORTRANを理解しにくかった理由に気付いた。
課題のコードを写経するだけでは、ソフトウェアとハードウェアの関係を理解しにくいのだ(すくなくとも筆者は)。
当時のキットは、PCから制御するものではなかったが、自分でハンダゴテを握ってモジュールを組み立て、スイッチをON/OFFして、光るLEDを確認して初めて、プログラムの役割が腑に落ちた。 この気付きは、後年、プログラミングの入門書を執筆する際に役立った。

技術を理解するには、ソフトウェアとハードウェアの間に線引きをしない方がよい。
「IoT」の時代、両者は有機的に結びつき、融合してこそ、新しい価値を生み出す。もはや、その間に壁があってはならないのだ。

この勤務先の社風は、当時の我が国の一般的なそれとはずいぶん異なっていた。
会議や朝礼は最低限。口頭の指示ではなく、文書ですべてが進む。社屋と社員のセキュリティは徹底。パソコン通信にいちはやく接続し、会社のPCの一部を、社員の学習のために解放することもあった。

そして、全社員に、提案を奨励していた。
当時筆者は、絵や音や動作や脳波を、他の情報に変換して出力できないか、という考えに熱をあげていた。
その考えは、多少、勤務先の役に立ったようである。

冒頭で紹介したヘッセ「シッダールタ」の中に、次のようなくだりがある。
商社の社長カーマスワーミとの面接で、若年無業者のシッダールタは、「私は考えることができます。待つことができます。断食することができます。」と、自己アピールをする。
この3つは、生きていくうえで役に立つ。とりわけ、「考えること」は。
「アイデアを出せる社員」という評価を得られたら、あなたは、経営者の話の傾聴者となるだろう。

ところが、困ったことが起こった。図面を複写するジアゾコピーの感光剤に、アレルギー反応が出始めたのだ。3年経ち、原因物質を遠ざけるしかない状態になった(★4)。

そこで、会社側が、ジアゾコピーを扱うことのない働き方を提案してくれた。
ひとつは、大企業の一般職への転職。もうひとつは、勤務先が他の企業と共に起業予定の、技術ベンチャーへの出向。 筆者は、安定より、適性を考えた。迷わず、後者を選んだ。

■技術ベンチャーへ出向、経営者たちを見て学ぶ

出向先では、新素材(EL)の用途開発の管理業務を担当した。技術ドキュメントの執筆、事務処理ときどき半田付け、商標登録手続きまで、必要なことは何でも実行した。
設立時からの出向であったため、会社設立に伴う諸手続きや、研究開発事業の会計作業も経験できた。それらの経験は、後の開業に際しての心理的なハードルを下げてくれた(★5)。

また、出資参加していた企業の経営者の方々と話す機会を得た。
技術力とアイデアで下請け脱却を目指す心意気、経営とはどういう仕事なのか、いかに資金繰りの重圧と新規事業のバランスをとるのか、どれほど社員やその家族の生活を気遣い、現在と未来を天秤にかけて決定を下すのか、といったことを見聞きできた。

経営者たちの姿勢を知るにつけ、自分に経営への適性がないことを再確認できた。
だから、開業後に売上が上向き始めたころ、同業の友人たちから法人化を勧められても、乗り気にはなれなかった。おかげで、ITバブルには無縁のまま、自分ひとりの事業を継続している。

挑戦は社会に益をもたらすが、無謀は他者の人生を破壊する。リーダーの資質のない者が、人を率いるのは、無謀である。
自分の器の範囲内で、上限をめざす人生がよい。

勤務先も出向先も、以前の制作会社とは真逆で、テクノロジーの香りのある職場だった。
しかしながら、今度は、ヴィジュアル要素がなかった。テクノロジーは、アートやヴィジュアルデザインから切り離されていた。

研究開発の助成期間が終わるころ、家庭を優先すべき事案が発生じた。
会社側と話し合い、退職することになった。会社側は、新天地を見つけて頑張れ、と、最大限の配慮をして、送り出してくれた(★6)。 次は、分野間の壁のない職場で働きたい、と考えた。

しばらく家にとどまり、ケアラー(介護者)のケアを担当していた。
それが落ち着き、再就職のタイミングをはかりかねていたとき、以前の出向先に出資参加していたデザイン事務所から声がかかった。<次回に続く>

★1 制作会社に、履歴書とイラストを送付し、採用された。以前の連載「データ・デザインの地平」の内容を図にしたようなもので、創刊直後の玄光社の雑誌「イラストレーション」のコンペに応募して、大豆粒ほどのサイズで掲載されたものだった(湯村輝彦氏選)。帰省したのは、親が持病の悪化で休職、筆者が二世帯分の収入を得て仕送りすることは困難だったため。

★2 30年以上前である。PCを導入している企業自体が少なかった。
当時、こども向けパソコン教育の取材時に撮った写真のうち、使わなかったアングルの1枚を発掘。懐かしい人もいるだろうから、掲載。PC6000。
(この元勤務先は廃業している。撮影は筆者)。

pc6000.png

★3 雑誌連載「みんなでウェブデザイン(1998年4月 ~ 2000年10月、CQ出版社「OPEN DESIGN」掲載)」以降、「デザインとは、ヴィジュアルワーク"だけ"ではない、"設計"である」と力説してきた。色や形や配色を決めることは、デザインという仕事の一工程であって、すべてではない。

★4 父がエンジニアだった関係で、乳児のころから家にあったジアゾコピーに日常的に触れていたため、おそらくは、感光剤の中の特定の化学物質に対して、許容量を超えたのだろうと思われる。

★5「ライル島の彼方」第3回、注釈6

★6 サービス・マニュアルを手掛ける企業なら当たりまえだが、元勤務先はその後、XMLをデータフォーマットとして採用している。もし、CAD化が進んだ時代だったなら、ジアゾコピーを扱うことはないから、今も勤務しているだろう。そして、XML黎明期から普及活動に首をつっこんでいたに違いない。


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