メルマガ連載「ライル島の彼方」第7回 「はたらく」ということ ~私が会社をやめた理由(3)~ 転載(2015/3/23 配信分)
この記事は、メルマガ「デジタル・クリエイターズ」に月1回連載中の「ライル島の彼方」の転載です。
第7回 「はたらく」ということ ~私が会社をやめた理由(3)~
■Microsoft & Adobe、制作環境列強時代の萌芽
( 前回からの続き。これは1990年代の話である。当時筆者はデザイン事務所に勤務していた。顧客のCAD/CAMベンダーのオフィスに常駐してデザインワークを行いながら、勤務先のDTP化を推進していた。 )
勤務先では、手作業からDTPへの移行が始まった。
外注の写植業者(印刷物の文字を入力する専門業者)は窮状を訴えた。が、アナログからデジタルへと、産業構造そのものが変わろうとしていた。
複数の Power Mac(7600、8100)と、Quark Express、Illustrator、Photoshopが導入された。
この選択に、筆者は、ひとつの疑問を持った。
Macはユーザーフレンドリーだった。いや、あまりにも、ユーザーフレンドリーすぎた。
計算機臭を感じさせないブラックボックスは、不具合が生じると、エラーコードを吐き出さず、バクダンの絵を表示する。納期に追われるデザイナーたちは、原因を追求するよりも、対症療法で回避する術を身に付けてしまう。
Mac版のソフトだけを使い続けたら、デザイナーたちはMacのユーザーインタフェースに過剰適応してしまうのではないか?
将来的には、Windowsマシンで蓄積された業務用データと連携する広告宣伝物が増え、デザイナーもWindowsを使わざるをえなくなる。そのとき、武骨なWindowsに抵抗感を持ちやしないだろうか。
Macオンリーではなく、すこしだけでもWindowsに触れる機会を残したほうがいいのではないか?
Mac版IllustratorとPhotoshop をメインに使い、Mac版Quark Expressではなく、Windows版Aldus PageMakerを採用する方法をとるべきではないのか?
なぜなら、将来、Windows DTP「も」使うことになったとき、デザイナーたちが Quark Expressを使うことはないと思ったからだ。
QuarkよりPageMakerを選ぶ道の方に将来性がある―――筆者は社長に、そう一言つぶやいた。
もっとも、客観的な根拠となる情報を持ち合わせてはいなかったから、つぶやいたところで説得力はない、と分かってはいたけれど。
その後、AdobeはAldusを吸収し、Aldus PageMaker は、Adobe PageMakerとなった。
今では、Adobe InDesignが DTPソフトのデファクトスタンダードとなり、Windows版InDesignを使うデザイナーたちも多い。
■インターネット時代のビジネスモデルへのシフト
そのころ、海の向こうでは、Windows 95がソフトウェア市場を変え始めていた。
筆者の常駐先のCADベンダーでも、主力ソフトの Windows 95 / NT 4.0 対応が、急ピッチで進められていた。
MS-DOS版は、全国のファブやゼネコン、官公庁にも導入されて、順風満帆。社員の誰もが、Windows対応を待ちわびていた。
もちろん筆者もだ。ベータ版が完成し、技術カタログを企画し始めた時には、長い冬眠から目覚めた動物のように、小躍りしたものだ。
ところが、"黒船" Auto CADを阻んでいたところへ、新たな、黒船がやってきた。
「インターネット」である。
またたく間に、アクセスポイントが増え始めた。
それは、PC同士がつながる便利な未来というよりも、手間暇かけた仕事の成果を低価格化、ひいては無償化してしまう危険性を孕んでいた。
顧客の希望を吸い上げて丁寧に開発し、開発コストを回収可能な価格で販売する。
顧客が無理なく費用負担できる期間を経て、バージョンアップを繰り返す。
営業部員はユーザーと良好な関係を保ち、電話サポートだけでなく、随時訪問をして、現場の要望を傾聴する。
インターネットの普及は、そういった当時のソフトウェア業界標準のビジネスモデルが成立しなくなることを意味していた。
どのベンダーにも、異なる営業手法(たとえば、安価な初期費用で使用権を与え、月会費でランニングコストを回収するというビジネスモデル)がもとめられ始めていた。
常駐先のシステム管理者とネットワーク管理者は、インターネットが普及すれば、メディア渡しよりもダウンロード販売への要望が高まり、低価格化を避けられなくなる、と予測した。
筆者は、彼らの発言を聞いて、ダウンロード販売は避けられないのだなと理解した。
なぜなら、彼らの判断には、技術情報だけでなく、ヒトの「直感」が関わっていると感じたから。
しかしダウンロード販売の開始は、ベンダーにとって、営業方針の転換を迫る一大テーマであった。
だからこそ、一朝一夕に結論を出すのではなく、入念な検討が必要だ、というのが標準的な考えかたなのかもしれない。
販売方法が定まらなければ、広告宣伝方針も定まらない。
多面的な検討がなされているあいだ、筆者は広告宣伝業務を保留にして、勤務先に戻った。
待たなければならないときと、待っていてはだめなときがある。検討なんてしていたら間に合わない。
社会情勢が変わるときは、徐々に動いたりしない。一気に動くのだ。
その速度に合わせて、死にものぐるいで変わろうとしなければ、取り残されてしまう。
もし、ダウンロード販売が即決して、すぐにでも準備に追われるようになっていたなら、筆者は常駐先にとどまり続けていただろう。
わずかなタイミングのズレによって、人生は異なる方向へ転がっていくものだ。
■Windows + Internet Explorer時代の幕開け
1996年、夏の終わり。 市内にアクセスポイントが開設され、勤務先では、DTP用のMacからインターネットに接続できる環境が整った。
そこで筆者は、インターネットを事業化できればと考え、勤務先のWebサイト制作に着手した。
ただし、会社案内のWebサイトではない。
当時勤務先では、Mac DTPによるフリーペーパーを発刊しており、地元の企業や商店の情報が集約され始めていた。
印刷媒体のフリーペーパーと連動するWebサイトを作ろうと考えたのだ。インターネット版地域情報誌、いわゆる地域ポータルである。
顧客の企業や商品の情報を、地域の不特定多数のインターネットユーザーに向けて発信する。
企業の認知度は向上し、就職希望者は増え、地産地消も増え、企業や商店間の情報交換が始まり、異業種交流が活性化するのではないか。
同僚たちには、それぞれの顧客に対し、インターネットの将来性を説明して、公開可能な情報を提供してもらう必要がある。
そして筆者は、アクセスの多いサイトを制作しなければならない。
情報収集と、制作技術。どちらが欠けても、インターネットの事業化は頓挫する。
同僚たちは、顧客との打ち合わせのついでにWebサイトの話を持ちだした。
筆者は、ひとりで、Webサイトを作り始めた。
インターネット黎明期、ユーザーの多くは、Web制作技術に関心を持つ者―――ネットビジネスに目ざとい経営者、ITエンジニア、趣味のホームページ制作者――だった。 画像を貼ってテキストをCenter揃えにしただけのWebサイトが少なくないなか、彼らの注目を集めるには、コンテンツよりも、技術。動的な仕掛けが必要だ。
当時主流だった検索エンジン「Yahoo!Japan」の使用技術別カテゴリに、ベンダーの次に登録されるぐらいの意気込みで、新しい技術を積極的に採用しなければならない。
当時の「Yahoo!Japan」は、登録申請されたWebサイトの内容を「人が」確認して、審査を通過したサイトだけを手動で分類して登録していたので、その上位に掲載されれば、アクセス数を期待できたのである。
試行錯誤が始まった。
bingもGoogleもない時代、「量より質」のYahoo!Japanの情報は限られている。それ以前に、Webサイトの絶対数が少ない。
なにより、当時の接続環境は従量制だったため、まだ利益を出していない事業に事務所の電話代を使うことがはばかられ、検索に時間をかけられない。
個人でPCを購入してNTTと契約したが、襖や障子が邪魔をしてモジュラーケーブルが無駄に長くなり、接続状況が悪く、検索どころではない。
書店に足を運ぶも、地方である。これといった書籍は見当たらない。質問できる先達もいない。
人件費を考えると、短期間で制作しなければならない。筆者の信条には反するが、「とりあえず動くものを作り、理論は後で学ぶ」を実践した。
ブラウザやプラグインを公開している海外ベンダーとサードパーティーのWebサイトのソースコードを読み、表示の共通点を見出す方法で、基本的なHTMLを習得した。
デザイン事務所であるから、画像制作には何の問題もない。
企業ビデオを手掛けていた同僚たちも、素材制作に協力してくれた。
ビデオカメラマンは、撮影スキルを駆使して、環境音を録音してきてくれたし、フォトグラファは、トップページ用に、3D風のイラスト素材を作ってくれた。
YAMAHA CS1Xで演奏した音を付けて、ムービーに仕立てた。
サイトのテーマ曲となるmidiは自作した。
音楽関係の雑誌を片端からあたり、DTMマガジンの存在を知り、その情報だけを頼りに、なけなしの貯金をはたいて、個人でシステムを購入した。当時のmidiの2大規格、GSとXGでは、GSの方がやや優勢だったが、筆者はYAMAHAに将来性を感じたので、YAMAHAのXGを選んだ。
流行も加味した。 日記が流行の兆しをみせていたので、日替わりの技術コラムを書くことにした。
レイヤーなしのPhotoshop leでイラストを直接描いて、フリーソフトでGIFアニメも作成した。
ある日、DTPデザインに使っていた Mac版のPhotoshopに、英語版Acrobat Distillerトライアルが付属していることに気付いた。自宅でベジタリアン料理を作ってアナログカメラで撮影し、英語のレシピページを作った。
動的、といっても、制作者が用意した動きを見せるだけでは面白くない。インタラクティブなものにすべく、VRML 1.0を採用した。
プラグインのデモについていたWorldファイルのコードを、メモ帳で開いて読み、意味を考えた。手作業で平面図からテクニカルイラストを起こしていた前職の経験が役立った。
そして、誰でも閲覧できなければならない企業や商店の情報は、静的なHTMLとして、環境依存を避けたが、プラグインの必要な大半のコンテンツは、Active X オートインストールに対応させた。
Active Xを動作させるには、ブラウザは、Wimdows版 Microsoft Internet Explorer3.0でなければならなかった。
それは、当時圧倒的シェアを誇っていた、Netscape Navigatorに背を向けることにほかならなかった。
しかし、筆者は、Active Xに感じる大きな可能性を、無視することができなかった。Microsoft のWeb技術は、業務システムから遊離しておらず、将来的なインターネット利用の社会システムを包括的に見据えているという点で、別格だったからだ。
勤務先の環境は、Mac+Netscape navigator2.0だった。 そのため、筆者は、DTM用には、Macではなく、FMV DESKOWER SE(Windows 95)を購入したのだった。
勤務先では、MacのSimpleTextを使い、自宅では、Windowsのメモ帳を使って、HTMLやプラグインのコードを書いた。改行コードの互換性のなさにうんざりしながら。
Internet Explorer 3.0 は、完全ではなかったもののCSSに対応していたから、できるだけ構造とデータと表現を分離した。Netscape Navigatorは、CSSには非対応だった。両方に対応するため、HTML3.2とインラインCSSを併記した。
1996年10月1日。 地域ポータルサイトの原型となるオンラインマガジンを公開した。
■直感のディスコミュニケーション―――ズレ始めたベクトル
筆者は、数年先には、Mac + Netscape Navigatorではなく、Windows + Internet Explorerの時代が来ると確信していた。そして、勤務先でもそう説いていた、だが、当時のIEの「悲惨な」シェアの前には、説得力も何もあったものではなかった。IEユーザーというだけで、異端だったのだ。
DTPでの設備選びと同じ問題が再燃した。
「ディスコミュニケーション」といってしまえば、それまでである。
当時は、Windows環境でインターネットビジネスを推進しなければならない理由が、なぜ伝わらないのか?と悩んでいた。
が、後に、多くの本や記事を書き、読者への伝達方法を試行錯誤するようになって、当時の自分の伝達方法にはいたらない部分があったことに気付き、大いに反省することとなった。
情報を受信しない相手に非があるわけではない。「社長にも同僚たちにも、申し訳ないことをしたのではないか」と、心から思ったものだ。
ところが、脳科学の情報がたやすく入手できるようになった今では、情報の発信者である自分にも、非があったわけではない、どちらも悪くなかった、仕方なかったのだ、という気がしている。
おそらく、筆者は、標準よりも、怖がりなのだ。未来の現象を恐れている。だから、未来から現在を見る。
避けられない未来があるなら、できるだけ早くポイントを切り替えて、軽傷で済む道を探った方がいい、と考えてしまう。
その切迫感を、怖がりではない人たちに、伝えることは難しい。
多くの事件や事故で、兆候を訴える人たちの訴えが見過ごされて犠牲者が出る状況に、似ているかもしれない。
個体の内側に発生する知覚を、いかにして他の個体に伝達するか?
これは、筆者だけでなく、上司や取引先に企画や提案を通したいサラリーマン誰にでも共通するテーマであろう。
将来的には、個体の感覚の自信度を数値化でき、「自信のほど」を伝えることは可能になる。
だが、その感覚が、「脳内情報の誤った連携による妄想」なのか、クロックする計算機には不可能な(というよりも、不可能であってほしいと筆者が願っている)「ヒトならではの時間にとらわれない気付き」なのか、正しく判別することは、30年後でも実現しない。
もっとも、ヒトか計算機か、という区別は、現在の議論のネタとして有効なだけであり、グレーゾーンの存在が増えるにつれ、ナンセンスでしかなくなるのだけれども。
選びとるべき未来にのみ視線を向けて、恐れずに伝え、躊躇せず行動すること。
企業内でもフリーランス同士でも、協働するうえで、これは最も難しいテーマである。
今なお筆者はその答えを見つけられていない。
(次回に続く)
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「はたらく」ということ ~私が会社をやめた理由(1)~ 転載(2015/1/26 配信分)
「はたらく」ということ ~私が会社をやめた理由(2)~ 転載(2015/2/23 配信分)