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「自由に弾いてはいけないの? 競争の基準とは」 競争とはコンクールとはーⅥ

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「私は何も悪いことをしていないし、足りないことがあれば直します。でも今回の結果は納得がいかないのです」
 
一般公開されている音大の卒業試験は、上位10名までが卒業演奏会に選抜されます。
 
その10名に選ばれなかった彼女は、私の知る限りとても音楽的で才能あふれる人。
先生も周囲も入って当然だと思っていました。
客観的に見て、彼女の演奏は、選ばれた演奏と比較してもとても劣るものとは思えません。
 
しかし、音大の卒業試験ともなれば、もう国内の大きなコンクールレベルの競争になってきます。 
そうすると、ちょっとしたミスタッチ、音の抜けや転びがあればすぐに減点対象となってしまいます。
生身の人間が行う一回限りの演奏において、技術的に限りなく完成度の高いものを要求されてしまうのです。
 
また、審査する側の音楽的な価値観も微妙に影響します。
 
教科書どおりに演奏しなければ認めないのか。
それとも、自由と個性、才能を尊重するのか。
 
プロのソムリエを目指すようなワイン・スクールでは、教科書に書いてある以外の表現はあまり好まれないと言います。
 
それでは、音楽の世界の教科書とは何か。
 
例えば、バッハとリスト、またはモーツァルトとプロコフィエフでは、打鍵のスピード、角度、力の抜き方入れ方、感情表現、強弱、リズム、テンポの設定まで全く違います。
同じように弾いてしまってはいけないのです。
 
それらのディテールを身につけ、説得力をもって演奏するための音楽的なメソッド。
それが音楽の教科書だと思います。
 
音大の先生方が「絶対に真似してはいけない」と口を揃えるホロヴィッツ。
彼などは、もしかしたらコンクール第一次予選で落選してしまうかもしれません。
 
桁外れの才能は認めても、メソッドから大きく外れるということは、すぐにそこでケチがついてしまいます。
 
それでは「メソッドをきっちり守った」「一つのミスもなく完璧に弾いた」という演奏ではたして良いのか。
 
私は、この問いでいつも心が揺れてしまいます。
 
素晴らしい作品に出会い、作品を練習し感動する。そしてその感動をより多くの人にも伝えたい。その突き動かされる想い。
 
それがあればこそ、永遠にくり返される問いなのです。

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