「絶対的な強さ 女神アルゲリッチ」 競争とはコンクールとは-Ⅳ
第10回ショパン・コンクールで、ポゴレリチが予選落ちしてしまうという大番狂わせにおいて、審査員をさっさと辞退して帰ってしまったアルゼンチン生まれのピアニスト、マルタ・アルゲリッチ(1941年~)。
かつて来日したときも、当時2番目の夫、指揮者シャルル・デュトワと喧嘩になり、キャンセルして帰国してしまった、という話は今もって伝説となっています。
天才にとって、自分の生きたいように生きることのほうが大事で、キャンセルくらいのことは大きな問題ではないように思えます。
それ以上に、彼女のひらめきと、情熱的で自由奔放な演奏は、聴衆の心を豊かにしてくれるのです。
そのアルゲリッチ自身、1965年の第7回ショパン・コンクールの覇者。
しかし、その前にも1957年にブゾーニ国際コンクールとジュネーブ国際コンクールで第一位を獲得しており、すでにピアニストとしての十分なキャリアを積み始めていたにもかかわらず、ショパン・コンクールに挑戦します。
ここで失敗してしまえば、当然彼女のキャリアに傷がつくことになったでしょう。
当時、生まれたばかりの長女を抱え、最初の夫とも別れた直後。コンクール本選におけるライブ録音は、退路を断った必死の姿が感じられる名演だと思います。
このときの優勝が、彼女の国際的なピアニストとしての活躍を決定付けました。その後一気にスターダムにのぼりつめるのです。
アルゲリッチこそ、コンクールにおける最大の成功者だと思います。
全ての競争に必ず勝つという、この圧倒的な強さ。
こんなに強気の彼女にして、実は、毎回ステージに上がる前、失敗の恐怖に恐れおののいているといいます。
プレッシャーやストレスは想像以上のものがあるのだと思います。
そこを振り切ってステージに上がる姿、異常なまでに精神を高め、燃え尽きる姿が、深く人々の心を打つのでしょう。
しかし、悪性の腫瘍を患い、アメリカでの手術。
そのとき、誰も付き添う人がいなく、日本人ピアニスト海老彰子さんが駆けつけ、世話をしたといいます。そして、高額な医療費が払えずに、元夫のデュトワ、そのほか4人の人々が出資しなければなりませんでした。
2歳8ヶ月からピアノに向かい最高の技術を身につけ、数々の競争にも向かうところ敵なしの勝利。3度の結婚と離婚。そして今、カリスマ女流ピアニストとして最高の地位にあるアルゲリッチ。
明るい光を浴びて幸せを与えてくれる一方、孤独な影の強さも感じずにはいられません。
競争。そして栄光。
今、彼女は一人何を思うのでしょうか。
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