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コミュニケーションにおけるノイズ、あるいは価値マイナスの資料について

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ウチの会社のビルでエレベーターの工事が始まった。
しばらく前から予告の張り紙が貼ってあったのだが、これにコミュニケーションの専門家として物申したい。

xx_20211120_エレベーター.jpg

この張り紙は情報量を97%くらい削減すべきだ。
工事する人がユーザーに伝えたいことは恐らく以下のメッセージ。

1)もうすぐ工事やるから、しばらく堪忍な。
2)エレベーター1機ずつ工事するから、全く使えない事態にはならんから安心してな。

それ以外に掲載されていることは、全てノイズであり、情報の価値としてはマイナスだ。エレベーターは2機あるので、1機が止まったとしても、「ちょっと不便になるけど堪忍してね」というだけの話で、詳細な日時などに関心がある人はいないだろう。

工事の詳細について知りたい特殊な人もゼロではない。例えば近々引っ越しや大型機材の搬入を予定しているとか。だがそういう人はどうせ、別途管理人さんとコミュニケーションする。張り紙としては「なにかやるよ」とだけ伝えればよく、どちらにせよ詳細は書かなくてよい。

僕が問題にしているのは、この張り紙の情報量が多くて、一番伝えるべきことが全く伝わらないことだ。張り紙を読むのが比較的好きな僕も、この張り紙を読んで、自分にどんな影響があるのかを把握することは出来なかった。読む前に4階についてしまうから。

実際、この記事を書くために改めて張り紙をちゃんと読んだら、実は2機のエレベーターが同時に止まる時間が少しだけあるらしい。だとしたらそれだけ書いた方がいいのに・・。
つまり一生懸命、詳細に書いてくれている情報のほとんどは、僕にとってノイズだ。
情報の価値はマイナス。その記載があることで、かえって張り紙の目的を阻害している。

で、このブログで言いたいのは、これと同じ「価値がマイナスなノイズ」は、企業で作られるあらゆる資料で観察できることだ。

僕は資料レビューする時によく「読んでないけど、情報量が多過ぎるのでNG」と言う。
これは一見してノイズが多い時。読まなくても分かる。
例えばパワポの1ブレットに3行以上の文章が書いてあるとか。
例えば「在庫参照機能」の説明として「在庫を参照できる画面」と書いてあるのとかも、有益な情報を全く付加していないノイズである。読む人に無駄な負荷をかけるだけ。

こういう資料をレビューする際、僕の口調はつい粗くなりがちだ。というのは、こういうノイズを資料に埋め込む人は、悪いと思っていないからだ。きっとエレベーターの張り紙を作った人も、全然悪気はないだろう。
読む人が知りたい「かも」しれない情報を資料に書くことの、何が悪いのか。その方が親切に決まっているのに!と。
同様に、プロジェクトの計画書とか新規事業のコンセプトを表現した資料に散見されるノイズにも、「ダメ!」とはっきり言わなければ、伝わらない。


役所とか大企業の資料の方がノイズは多い。
僕も組織で長く仕事をしてきたので、なぜノイズが多い資料になってしまうのかは、だいたい想像できる。

まず、無意識に「情報が多い資料が良い資料」と思い込んでいる人が多い。酷いケースだと、「薄い資料だとサボっているみたいなので、厚くしてください」みたいなこともある。おいおい。
当たり前のことだが、コミュニケーションで重要なのは、「発信した情報の量と質」ではなく、「受信した(理解できた)情報の量と質」である。前者にはなんの価値もない。
これを意識した途端、「情報が多すぎると、受信に差し支える」を理解できるはずだ。
さらにこれを意識すると、「受信者の状況に応じて、最適な発信方法も変わる」ということも当然導かれる。今回のエレベーターの例だと、「エレベーターピッチ」という言葉があるくらい、受信者が受け取れる情報量は限られている。まずそれを意識すべきだ。
そして同じことを、顧客や上司に対しても、やってしまっている人が、とても多い。


次に、「とにかく何かを指摘するのが自分の仕事」と思っている管理職がいる、という問題。なんか言わないとサボっているみたいなので、なんか言う。そういう人は不思議なことに「この情報はノイズなので削除せよ」とは言わず、必ず「コレも書け」という。なぜなのか。

他にもある。リスクをゼロにしたい、という願望だ。
エレベーターの張り紙でいうと、「前にこういう問い合わせがあった。問い合わせが来ないように、予め書いてほしい」とか。「クレームが来た時に、事前に張り紙に書いてあったでしょ、と言えるほうがいい」とか。
これは一見、理にかなっている。でもよく考えてほしい。10年前に1回問い合わせがあったのをきっかけに、99%の人にとって分かりづらい資料になるのが、本当に良いことなのか、と。
この理屈も、ホワイトカラーの職場で散見される。「◯◯役員からこういうツッコミがあるかもしれないから、これも書いておくべき」とか。


といった感じで、「なんでこんな文書が出来上がるのか?」は、僕もだいたい想像できる。
ただ、その上で強調したいのは、そういう話は全部内輪の論理だということだ。
張り紙であれ、投資決裁を仰ぐための資料であれ、すべての文書は読み手のために存在する。だから上で書いたような話は全部「そんなの読み手にはかんけえねえ」と無視した方がいい。

例えば「問い合わせが来ないように、予め書き足せ」という、一見合理的なコメントを言ってくれる人に対して、「いや、読み手にはノイズなんで」と言い放つ野蛮さが必要なのだ。それが出来ない限り、張り紙の情報量は際限なく増え続け、結局一番大事なことが伝わらない張り紙になる。


そもそも、日本企業にはこの手の野蛮さが圧倒的に不足していると僕は思っている。
野蛮さをもう少し丁寧な言葉に言い換えると、「大事なことのために、些細なことはあえて無視する姿勢」だろうか。
皆、口では「顧客第一」と言う。それを真っ直ぐ目指そうとすると、野蛮さが必要な局面に、必ず直面するハズなのだが・・。


ということで、実際にエレベーターを保守してくれている方々にはなんの文句もなく、むしろ感謝しているのだが、張り紙をきっかけに色々と考えてしまったのだった。

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随分むかし書いた、野蛮さについてのブログ
https://blogs.itmedia.co.jp/magic/2012/08/post-1621.html

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