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"ソーシャルメディア革命"の感想

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ソーシャルメディアの可能性はどの程度あるのでしょうか?本書ではTwitterにおける改革活動に貢献できるかをグラッド・ウェル氏がイラン大統領選挙を例にして批判を行い、ビズ・ストーン氏がケニアの民族抗争の鎮圧した件で反論しています。

この結論は難しいところですが、本書では"基本的に、革命がツイートされるとすれば、それは私たちがそれをリツイートすることを自己満足と感じなくなった瞬間である"でコメントでくくられていることをしめとして紹介しています。

たぶん、これは正解なのでしょう。それはちょうど今(2011.1末)エジプトで反政府デモ(独裁政権への革命?)がTwitterやFacebookで連絡を取り合っていることが一つの証拠です。また、"インターネットが“消えた” グラフで見るエジプトのネット遮断"にも紹介されていますがエジプト政府がインターネットの遮断して対抗しなければならないほど、ソーシャルメディアの影響度が非常に高いのでしょう。

また、他にもChikirinの日記で"アラブの政変で負けようとしているのは誰なのか?"のエントリがかなり強烈でした。内容もそうですが、このような見方や考え方がマスメディア以外から発表され、気軽に読めるところもソーシャルメディアの良いところです。この考えが正しいかわかりませんが、マスメディアが発表しないことはよくありますし、常に正しいということもありません。

ソーシャルメディアの定義はかなりあいまいです。本書では極端な例の一つとして"ソーシャルとは「リアルな友人との関わり合い」のことを指す。"を紹介しています。

言葉の定義は時代と共に移り変わることもあるため何も上の定義が間違っているとは言えません。SNSのオープン・クローズド、実名・匿名やブログ・ミニブログ、wiki等、メール等交流することはいろいろあります。Facebookの友達申請・許可やTwitterのフォローの人によって方針は違います。何が正しいかは文化や地域、生まれた時代によって千差万別です。

ツールの使い方に正しいも、間違いもないと私は思っています。自分に合ったように使えばいいのです(私はFacebookをうまく使えていない...恥ずかしいことですが)。ある使い方は作った人の構想からは思いっきり外れていても、悪いわけではありません。

このように思うとまだまだ世に生まれていないソーシャルメディアがいっぱいあるように思えます。ブログはそのうちの、最も分量を多くすることが可能で、リアルタイム性が乏しく、関わり合いが希薄で、特殊技能を必要としていないメディアの一つに定義されるのかも知れません。

ただしソーシャルメディアと言えるのは、一部の人しかが発言できないメディアは除外されると思いますが。

本書ではあまりソーシャルメディアとは関係ありませんが、日本ではガラパゴス化しやすく且つなぜ韓国や台湾が、シンガポールが海外志向なのかに関しては、一つ面白い理由を説明しています。

それは内需の規模が違うことです。日本国内の需要は、韓国や台湾から比べれば巨大です。また、日本は単一言語のため、ローカライズの手間も大きくはありません。このため、海外に行くよりも日本国内で優先したほうがリスクが少なくチャンスが多い時代が長かったです。

ですが、NECのPC部門の売却(ニュースでは売却とは書いてありませんが、"レノボが設立から5年後の2016年に、NECの同意を前提に全株を取得する権利を持っている"を見る限りは5年後に売却のシナリオが規定路線なのかもしれない)等を見ると閉じこもっていたため、規模の競争で他のアジアのプレイヤーに勝てなくなってしまうと。これは家電メーカがその顕著な例ですが、ソーシャルメディアを提供しているプレイヤーにもいえるのかも知れません(最近は海外に出て行く企業があるため、旧世代の企業とは違う結果をだすかも知れませんが)。

また、本書ではプロブロガーの可能性としてジョン・チャウ氏の「たとえそれでお金がまったく入ってこなくても、ブログを書き続けられるほどの強い興味と情熱を何かしら持っている人間は、プロブロガーになる潜在能力を持っている」を紹介しています。

なかなかブログを継続的に書くのは大変なことです。オルタナでも毎日更新される方がいて頭が下がります。また、非常に面白く且つ有意義なエントリを書く方々多く、すごいと思うことは何度もあります。

そう思うと、少しでも多くエントリを積み重ね、ちょっとだけでもためになるような内容を書いていきたいと思います。それこそがソーシャルメディアなのでしょうから。

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