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グローバル化する中で日本人はどのようにサバイバルすればよいのか。子ども×ICT教育×発達心理をキーワードに考えます。

幕末、安政大地震から奇跡の復興を果たした紀州 広村の商人・濱口梧陵とはいかなる人物か

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はじめに

幕末にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が"Living god"(生き神様)と称して、英語文献で外国に紹介した浜口梧陵という日本人をご存知でしょうか。

私は今日のお昼12時頃から放送されていた、NHK BSのTV番組で初めて知りました。江戸末期の大災害の際、冷静な判断で壊滅的な状態の村を復興させた偉人がいる、と外国で評判になった日本人だそうです。

私は今まで存じあげない方でしたが、浜口梧陵(はまぐち ごりょう)という人物の生き様は、ぜひみなさまにも知っていただきたいと感じました。

そこでTV番組の途中からメモした情報を元に、幕末、安政の大地震で壊滅的状態に陥った"紀州・広村"を復興させたできごとをご紹介したいと思います。

なお、メモする際に間違ってメモしたり、聞き間違ったりした箇所が時にあるかと思います。誤りがあった場合、追加情報をご存じの方はコメント欄でお知らせいただけましたら幸いです。どうぞ、よろしくお願いいたします。

【追記】読者のみなさまからの情報提供のおかげで漫画『JIN』に濱口梧陵が登場していたことや、「海嘯」は地震津波を指す言葉だったこと等、わかってきました。記事の下にあるコメント欄もご覧いただけましたら幸いです。情報をくださったみなさま、ありがとうございます。

一介の商人はどうやって村人を守り、壊滅した村を復興させたのか

濱口梧陵(はまぐち ごりょう)は、紀州の醤油製造業のお店の当主でした。安政元年11月5日(1854年12月24日夜)当時、35歳。

安政の頃は財政が逼迫していて、政治への不満も高まっていたそうです。そんな時期に日本で大地震が起こりました。

そして、大砲のような音を耳にし海水が引いていく様子に気がついた梧陵は、「この様子は海嘯だから、これから津波が広村(ひろ むら)に来るのではないか? 」と判断。村人を10メートル上の神社へ避難させます。

【追記】梧陵が迅速な判断をした理由として、読者の方からいただいた「ちなみに安政南海地震では、その直前に起こった安政東海地震の津波による被害で、警戒心が高まっていたことも被害を少なくした原因と聞いてます。」という情報が参考になりそうです。広村の大震災の前日・12月23日に、東日本で大震災が起きていました。

別な読者の方からは、「番組中で取り上げられ、浜口家にも所蔵されていた『日本三大実録』には平安期東北で起きた貞観地震についての記述があります」とのことです。おそらく梧陵は古文献を読んで地震についての知識を得ていたのでしょう。

注 当初、私は海嘯=津波が押し寄せる時の大砲のような音と勘違いをしていました。しかし「海嘯とは川を逆流してくる流れのことで、Wikipediaにも>昭和初期までは地震津波も海嘯と呼ばれていたとあり、ここでは海嘯とは津波のことです。」とご指摘をいただき表現を直しました。情報をありがとうございました。読者のみなさまからの情報はコメント欄に全文記載されています。

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村人は津波を逃れるため、必死に神社へ向かいます。しかし、夜になってしまい神社が見えなくなってきてしまいました。逃げ遅れた村人を救うためにはどうしたらいいか。

稲わらに火をつけた

梧陵は逃げ遅れた村人にも神社が見えるように、神社の前で貴重な稲わらに火をつけたそうです。稲わらの火によって、夜になっても神社の場所が把握できるようにするためです。

貴重な稲わらに火をつける行為は、反対が出かねない行為でした。ですが梧陵がひらいた学問所の学生が賛同し、稲わらに火をつけて協力したそうです。

梧陵は個人で1万冊の蔵書を持つ図書館を運営していたのだそうです。幕府が図書館を作らなかった代わりに、地域のお金持ちが蔵書を公開していたとのこと。

当時、江戸幕府は税金はお米で集め、4割の税金を徴収していたそうです。しかし、お米以外を売れば特に税収はかからなかったとか。

そのため、商売で儲けた人は社会貢献しないと庶民の尊敬を得られないし、自分が儲けたお金で贅沢をすると処罰されたそうです。

浜口梧陵は醤油の商売でお金を得た分、地域の青年団に教育をし、軍事教練と新たな教育を行なっていたようです。「産業だけでなく、防衛も教育も自分たちの村で行おう。そうでないと、この国はもたなくなる。

浜口梧陵は

  1. 地域の自治
  2. 地域の指導者
  3. 人間の倫理を外さない

の3点を大事にされていた人物だったそうです。

そして、安政の大地震で紀州・広村に大津波がやって来ました。村人たちは広八幡神社に逃げました。梧陵が稲わらに火をつけようと判断した結果、村人は夜でも神社を目指して逃げることができました。

復興のために

震災後直後の様子は、『安政問録』という文献に記されているそうです。「人生の悲惨、ここに極まれりと言うべし。」梧陵はとなり村からお米を借受けたり、それこれ手を尽くし復興を目指しました。

しかし、

  • 相次ぐ余震
  • 冬の寒さで体調を崩す人が続出
  • 病気になるものが相次ぐ
  • 津波の恐怖

は深刻で村の存続の危機。紀州藩は全域に地震と津波の被害を受けて、対策に動けない状態でした。

そこで浜口梧陵は紀州藩に手紙を出しました。「工事費は自分で出しますので、堤防工事を許可してください」とお願いをしたのです。梧陵は私財で大堤防工事を行おうとしました。

堤防を作るお金をどうするか

堤防の工事をするため、莫大なお金を集める必要があります。そのため、梧陵は千葉県銚子市とのつながりを生かしました。紀州・広村(和歌山県)から移住した人が多かったからです。

銚子市は江戸時代においても、醤油の搬入口の役目を果たす土地でした。醤油の製造工場を銚子市に作った濱口梧陵は、紀州・広村(和歌山県)と銚子市に両方家を持ち、行き来していたそうです。銚子市はあくまで出稼ぎの場であり、故郷・紀州が自宅と認識されていたようです。

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たしか銚子市の醤油屋に記録が残っていたのだった、とあいまいに記憶しております。大堤防を作るための寄付の記録には、100両という記載がたくさん書かれていました。

「お米ではなく人件費として換算すると、現在の3000万円相当なのだ」と茨城大学の磯田先生が解説をされていました。

梧陵は復興を大震災の3ヶ月後から開始したそうです。自分でお金を集めて村人の家を建てたり堤防を作ったとか。自ら村を守るという意識強い人物だったそうです。

しかし、安政2年(1855年)に安政の大地震が起こり、濱口家の醤油屋の江戸支店も閉鎖に追い込まれました。梧陵は資産の2割を紀州・広村の復興資金に回していましたが、関係者からは広村への送金中止を求められたそうです。

梧陵は広村の復興と家業の再建の間で悩みます。悩んだ結果、周囲の反対を受けながらも梧陵は広村への送金を続けました。銚子市の人たちは「広村への送金のために、一生懸命稼がなくては」と協力してくださったそうです。

そして、安政5年(1858年)に広村の堤防が完成します。4.5メートルの堤防で奥行きは20メートル。津波対策をした大堤防です。

堤防の周り(?)には600本の松が植えられました。津波が来た際、村人が海に引き込まれるのを防ぐためだそうです。そして、はぜの木が堤防の上に植えられたそうです。はぜの実はろうそくを作ることができ、貴重な現金収入になるそうです。

未来の村人のために、堤防維持費を稼ぐために梧陵ははぜの木を堤防の上に植えたそうです。地震発生からわずか6年で広村は復興しました。

濱口梧陵が作った堤防は未来の村人を救った

梧陵が復興を行った幕末から88年後、昭和南海地震が広川町(旧・広村)を襲いました。しかし、梧陵が作った大堤防のおかげで市街地はほとんど津波の被害を受けなかったそうです。大堤防は88年の後村を守ったのです。

そして神社は海抜44メートルの位置まで上げられ、神社はさらに高い堤防となりました。40メートルの津波にも耐えられるようになったそうです。「より高いところに逃げる。」村に受け継がれた先人の知恵があります。

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島田雅彦さんは、こうおっしゃっていました。「天災は忘れた頃にやってくる。しかし、堤防があれば津波を意識できる。」

磯田先生は「第一波の低い津波を堤防で防げれば、多くの人が逃げる時間ができる。第2波以降のより高い津波が来るまでに逃げることができる。」と。

そして「死生観が江戸と今は違う。江戸時代は各家が代を重ねて暮らしている。そのため梧陵も区間ランナーとしての意識で生きているのではないか? 」という内容をおっしゃっていたようにメモしていました。

童門冬二さんは「自分の村は自分たちで守る」という言葉をおっしゃっていました。私も浜口梧陵は「民の力を生かして国を救う」という意識をお持ちだったのではないかな? と感じました。

浜口梧陵は明治時代に紀州藩に登用されたようです。そして、能力に応じた給料制に財政改革をしたそうです。そのことを大久保利通が褒め、中央政府に登用されたということを知りました。

梧陵は後に明治政府の郵政事業のトップになり郵政民営化を考えていたそうです。しかし、梧陵はわずか20日で辞任。なぜなのでしょうか。

浜口梧陵は1820年生まれ。江戸時代の生まれでした。一方、明治政府は「明治=江戸の否定」という価値観だったようです。大久保利通、伊藤博文はプロイセン(ドイツ)の専制国家を目指して国造りをしていました。

梧陵は民目線でした。「新しい時代の民間人の力をどう育てるか」という志を持っていた梧陵と、明治政府の考え方とは合わなかったのでしょうか。梧陵は晩年、和歌山の県議会議長になって亡くなられたようです。

おわりに

もしラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英語で外国に梧陵のことを紹介していなかったとしたら、私は今も知らないままだったのでしょうか? 出演者の童門冬二さんは、子供の時に教科書で浜口梧陵の紹介を観たとおっしゃっていました。なぜ教科書から紹介されなくなってしまったのでしょう?

童門冬二さんが「浜口梧陵はオールパブリックだったのではないか」という内容をおっしゃられていました。オールパブリックという言葉をどう認識したらいいのか迷いました。

が、日本人として浜口梧陵という人物の生き様を知ることができて、心から嬉しく感じました。今を一生懸命、生きて取り組みたいと思った次第です。


編集履歴:2013.10.05 14:48 記事が長いため、後半部分を「幕末、安政大地震から奇跡の復興を果たした紀州 広村の商人・濱口梧陵とはいかなる人物か(続編)」として独立させました。見出し「麦わらに火をつけた」を追加しました。2013.12.22 15:01 見出し「復興のために」を追加しました。同日16:44 「幕末、安政大地震から奇跡の復興を果たした紀州 広村の商人・濱口梧陵とはいかなる人物か」のラストに追加した補足の部分を別記事として独立させました。2016.3.14 15:55 後編を前編と統合。句読点を追加。本文から「>>「幕末、安政大地震から奇跡の復興を果たした紀州 広村の商人・濱口梧陵とはいかなる人物か(続編)」に続く」「幕末、安政大地震から奇跡の復興を果たした紀州 広村の商人・濱口梧陵とはいかなる人物か」の続きです。」安政南海地震が起こった」を削除。「聞き間違った」のあとに「りした」を追加。「が、」「詳細は」を削除。「なぜなのでしょうか。」「一方、」「梧陵は」を追加。「ようです」→「そうです」、「参考になるのではないかと私見では感じました」→「参考になりそうです。」、「、日本には」→「に」、「すでに」→「【追記】」「し、」→句点、「千葉県調布市」→「千葉県銚子市」に修正。「梧陵は」を追加。

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