『稚児今参り研究(増補版)』のはじめにをITmediaに公開しました
先日、日本文学研究者として『』という本を出版させていただきました。
参考:片岡麻実『』
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おかげさまで現時点では、国立国会図書館、国文学研究資料館、国際日本文化センター、学習院大学、滋賀県立大学、名古屋大学、弘前大学、埼玉県立図書館、西東京市図書館に所蔵されています。
少数とはいえ、お読みくださる方がいらっしゃること、大変ありがたく感じております。ありがとうございます。
そして、研究論文や資料はオープンアクセスである方が良いと考えていることから、拙著『稚児今参り研究(増補版)』の冒頭部分(はじめに)をインターネットに公開することにしました。
「はじめに」の部分に本の概要が述べられていますので、お伽草子『稚児今参り(ちごいま)』に関心がある方のご参考になりましたらうれしいです。
以下、増補版用に書き下ろした「はじめに」です。
増補版はじめに
本書は『稚児今参り』の古典受容や写本の異同の検討を通して、室町時代から江戸時代初期にかけての「写本の成立」「作品の再創作の様相」、「中世における尼天狗像」に関する諸問題について考察するものである。
『稚児今参り』研究については、阿部泰郎[監修]江口啓子・鹿谷祐子・末松美咲・服部友香[編]『「ちごいま」物語絵巻の世界』(二〇一九)が著名であるが、新たな一視点の発見を目指した。
以下、本書の概要と趣旨を述べる。本書は四章により構成される。
第一章「奈良絵本『ちごいま』における古典受容」では『稚児今参り』の本文が増補された際に、『源氏物語』『狭衣物語』『平家物語』からの引用を行っていることを踏まえた上で、奈良絵本『ちごいま』の挿絵はなぜ本文(詞書)とのずれが起こっているのかを考察した。拙稿は奈良絵本『ちごいま』ならではの特色を明らかにすることを意識した。
第二章「『稚児今参り』における古典受容論 ―『源氏物語』『狭衣物語』の和歌の影響―」では、『源氏狭衣百番歌合』も踏まえた上で、『稚児今参り』に「月の都」「草の原」という表現が使用されている意図と『稚児今参り』が中世の読者にどのように読まれていたのかを考察した。藤原俊成による「源氏読まざる歌よみは遺恨の事なり」の影響を論じようと試みた、
第三章「和歌受容にみる『稚児今参り』成立私考 増補改訂版」においては、初出原稿において『時慶卿記』慶長十年条に「三月四日 児今参ノ双紙初而一見候」と記載されていることを踏まえ、奈良絵本『ちごいま』を制作した人物は時慶と交流がある人物であった可能性が想定される点を作業仮説とし、その上で作中和歌の詠出手法と、この想定とが綺麗につながるかどうかを検証したが、新写本が発見されたことを踏まえて再検討を行ったものである。
新たに明らかになった『稚児今参り』の白描絵巻の情報も加え、『稚児今参物語絵巻』(彩色絵巻)の本文を増補した人物像を考察した。
第四章「『稚児今参り』における尼天狗像私考 補正版」では、尼天狗の歴史を概観した後、以下の点を検証した。平安時代の尼天狗は僧侶の修行を妨害する仏法と対立する存在として描かれていた。しかし、中世になると権力と対立する存在に変化していった。中世末期には鬼の系譜上にある山姥の影響を受け、善悪を併せ持った善天狗としての尼天狗が登場した。
室町時代末期に制作された『稚児今参物語絵巻』の尼天狗の姿は烏天狗であったが、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけて制作された奈良絵本『ちごいま』の尼天狗の姿は挿絵のみ人間の女性に描かれている。本稿ではなぜ奈良絵本の挿絵では烏天狗のはずの尼天狗が人間として描かれたのか、なぜ本文との乖離が生じたのかを考察した。その際、初版では『今昔物語集』との類似を指摘したが、増補版では結論の一部を訂正した。
稚拙な論文集である本書ではあるが、初版を読んだ研究者の方々から温かいご教示をいただくことができた。増補版が少しでも『稚児今参り(ちごいま)』研究の礎となり、本書での試みをくみ取ってくださる方がいらっしゃれば望外の喜びである。