イスラム国 日本人人質事件にみる 自己意見のつくり方
今回のイスラム国 日本人人質事件について、小生は結論めいた意見を示すつもりはないが、散見される意見の発信について、教育的な視点から、いくつか気がついたことを記してみたい。
法政大学教授の水島宏明氏がBLOGOSで取り上げている"言葉"は、様々な情報が発せられる中で、本質的な問題を捉えることの大切さを再認識させてくれる。
「後藤さん殺害事件で「あさイチ」柳澤キャスターの珠玉の1分間コメント」
「後藤健二さんの死で大学総長の田中優子さんが発した確かな"言葉"」
これは答えが容易に見つからない、大きく複雑な課題を我々に突き付けている。
一方で、いち早く答えにたどり着き、それを自己の意見として発信している人が多くみられる。総理は辞めろ、とか、自業自得だから殺されればいい、といった主張もその一つだ。
ここで、いくつか懸念が生じる。
・批判や文句を言うだけで、解決策にはほど遠い意見が多い
・意見をつくるにあたって得た情報が限られており、判断のためには足りない
・得た情報が適切かどうか、確認されていない
・得た情報に基づく考えが稚拙、あるいは考え自体を他から得ている(自分の考えが希薄で、鵜呑みに近い受け売り)
・情動的で、冷静かつ論理的に考えていない
・主題の設定が稚拙あるいは、的を射ていない
例えば、後藤さんの母親を名乗る方が、金のために動いていて(そうとは一次情報では筆者は確認していない...仮定として議論のためあげた)、それを利用して利得を得ようとするマスメディアや政治家がいたとする。これらの発信をすなおに受け取ると、そもそもインプットが曲がってしまう。それを察知している人は、そうしたマスメディアが情動的なコンテンツを流しても、かんたんには揺さぶられないだろう。しかし、知らなければ左右されかねない。
得た情報が適切かどうか、確認されていない・・・これは、健全な疑いを持つことをお勧めする。例えば、視聴率を上げたい、安倍政権を攻めたい、といったアジェンダを持っている人・組織は、それにそった発言・行動をとる。それも第三の目(見たまま鵜呑みにするなの意)で斟酌して受け取る必要がある。そもそも二次情報は、ノイズが多いのが常だ。
小生はよく、誤った答えや行動は「無知の知」に起因すると言っている。つまり、自分が「何を知らないか」知らない、ということだ。
今回の問題は、容易でなく複雑だ。安直な結論を声高に唱える人・組織の意見は、そもそも疑った方がいい。
そもそも主題の設定が的外れでは、考えても仕方がない。この類が実に多い。
こうした情報のとらえ方と考え方は、新事業はじめ新たなテーマに挑む際には、必要不可欠なものだ。不確実で新しいことには、これらの注意点を踏まえた上で取り組みたい。もっとも、新事業ではいつまでも議論してばかりでは始まらないので、どの段階で踏み切るかがもう一つのチャレンジとなる(この点は別の機会に書いてみたい)。
専門外のテーマだが、蛇足ながら、一般論で示唆を書いてみた。