Report on Japan's infrastructure topic on weekend.
| « 2006年8月25日 | 2006年8月27日の投稿 |
2006年8月28日 » |
ハードにせよソフトにせよ、マニュアルを読まないという人は多いと思います。それでいて、マニュアルを読んでいないがために、何かでつっかえるとたくさんの時間を無駄にして、あきらめてマニュアルを開くと一発でわかって解決した、というパターンもよくあるわけです。けれども、その後、マニュアルを読む人になるかというと、そういうことはなく、マニュアルをやんわりと拒絶するスタイルは続いていくわけで。
マニュアルが不要というスタンスで開発した製品はすでに登場しています。お年を召した方をターゲットにしたボタンが少ない携帯電話機が典型ですね。
先ほど、あるソフトウェアのマニュアルを見ていてふと思ったのは、「マニュアルが要らない、けれども機能は簡素化している」というところにとどまらずに、「マニュアルは要らない、けれどもほとんどの機能は当初は”隠されており”、ユーザーの習熟度合に応じて機能が現れてくる」といった製品があっていいのではないか、ということです
Wordのメニューで言うと、当初は、「ファイル」メニューしかなく、それだけで文書は作ることができる。それがマスターできた段階で、「もう一段階深く知る」なんていうボタンを押すと、「編集」メニューが現れる…といった具合です。
結局、中身がよくわからないメニューは邪魔なだけだし、そこに表示させておく必要はないように思うのです。今日び、習熟しなければならないものは多く、それこそ携帯メールの管理から、Mixiの写真の差し替え方法、ブログのコメントスパムを削除する方法まで、多岐にわたります。リテラシーが求められるところは、あちらにも、こちらにも、あるわけで。
このなかで、一人の生身の人間の”習熟”にかけられる時間が限られていることをよく考えると、その負担を軽減するアプローチがあってもよい、と考えることができます。Learningに対するUnlearningのようなものです。Functionalityに対するDisfunctionalityとでも言ったらいいでしょうか。ただし、単純に機能を間引くのではなく、インテリジェントかつダイナミックに、間引くことも可能だしフルセットも可能だし、というのが好ましいでしょうね。あるいは、総合的に習熟の負担が間引かれているけれども、五感を使って受ける刺激はすばらしいといった、経験価値に着目した方向設定がありますね。
こうした観点は、コンテンツやサービスの供給サイドに立っているすべての方々にも、いずれ必要になると思います。ターゲットの生身の人間の時間は有限である、それを前提にすると、こうあらねばならない。そういう視点です。
| « 2006年8月25日 | 2006年8月27日の投稿 |
2006年8月28日 » |

顧客に“ワォ!”という体験を提供――ザッポスに学ぶ企業文化の確立
ちょっとした対話が成長を助ける――上司と部下が話すとき互いに学び合う
悩んだときの、自己啓発書の触れ方
考えるべきは得意なものは何かではなく、お客さまが高く評価するものは何か
なんて素敵にフェイスブック
部下を叱る2つのポイント
第6回 幸せの創造こそ、ビジネスの使命