オルタナティブ・ブログ > ビジネスライターという仕事 >

ITに強いビジネスライターとして、企業システムの開発・運用に関する記事や、ITベンダーの導入事例・顧客向けコラム等を多数書いてきた筆者が、仕事を通じて得た知見をシェアいたします。

Twitter等で訳知り顔な言葉がはびこる理由

»

魯迅に『賢人と愚者と奴隷』という掌編がある。だいたいこんな話である(注)。

愚痴ばかり言っている奴隷がいた。ある日賢人に会ったので、自分の境遇を嘆いた。「まったく気の毒だね」と賢人は同情し、「いまにね、きっと良くなるよ」と言った。奴隷は気分が良くなった。

しかし2、3日するとまたむしゃくしゃしたので、愚痴をこぼす相手を見つけて、自分の家は豚小屋並で窓がなく臭くてしかたないと話した。今度の相手は愚者だった。愚者は家に連れていけという。家に着くと壁を壊し始めた。窓を開けるのだと言う。奴隷はあわてて止めたが、愚者は聞かない。泣き喚いていると周りの奴隷たちが集まってきて、愚者を追っ払うことができた。

主人がやってくると奴隷は、最初に自分がどなって、みんなで力を合わせて追っ払ったと得意そうに告げた。主人は奴隷をほめた。

その日、賢人が見舞いにきたので、奴隷はほめられたことを賢人に話した。賢人は、自分のことのように喜んで頷いた。

 

の賢人にそっくりな先生を僕は知っている。何人も知っている。先生たちの周りでは今日もこのような茶番が繰り広げられているに違いない。

面白いのは、「奴隷」たちが賢人先生の言うことをすぐに真似たがることだ。今日もTwitterやfacebookには、そのような言葉があふれている。それだけ奴隷が多いということなのだろう。

これは、奴隷を責めたり、貶めたりしているわけではない。

魯迅はこのような寓話を書きつつ、自分こそがこの奴隷なのだと言った。だったら、僕も奴隷なのだ。奴隷が奴隷を攻撃するのはお門違いだ。自分を攻撃することになる。

違いがあるとすれば、賢人を憎んで愚者を愛するのか、賢人に従い慰めを得るのか、それだけしかない。

 

なみに賢人とはヒューマニストのことらしい。愚者が何を指すのかは残念ながら調べ切れなかった。革命家だとかそんな単純な話ではなさそうだ。

 

批評.jpg※『賢人と愚者と奴隷』はちくま学芸文庫『高校生のための批評入門』に全文掲載されています。

これは高校生向けに編まれていますが、大人が読んでも勉強になる良書です。

いつものように画像はAmazonから拝借しました。リンク先はAmazonアソシエイトです。ご注意ください。

 

(注)当初こう書いていました。「全文転載しても、1925年の翻訳文なので著作権の問題もないはずだが、一部小説的な冗長な表現もあるので要約しておこう。 」すみません。無知というか勘違いでした。翻訳者の竹内好先生の没年からまだ50年経っていないので、問題ありです。翻案権の侵害の可能性があるとのご指摘がありました。それで書き改めました。ただ、「翻案とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的な表現形式を変更して新たな著作物を創作する行為であると解されている」(Wikipedia「翻案権」より)とのことなので、上でもまずいのかもしれません。ただ、上のレベルでまずいとなると、本や映画のあらすじを述べること自体が問題となり、それは不自由すぎると思うので、載せることにしました。権利者(ご遺族になると思われますが)からの何らかのクレームがあれば、再考するかもしれません。

下はWikipediaからの引用だが、 これを読むと、愚者というのは小説家ではないかと思う。

1906年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を始めるが、文筆は滞っていた。そこに友人銭玄同金心異に小説を書くよう勧められて、魯迅は次のように答えている。

たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか。

これは当時の故国の社会を絶対に壊せない鉄部屋に、人々をそこで熟睡したまま窒息して逝こうとしている人々に例え、かなわぬ望みを抱かせる小説など、書かない方がよいのではないか、と言う。それに対して金心異は、「起きた者が数人でもあるのなら、その鉄部屋を壊す希望が絶対無いとは言い切れないのではないか」といった。魯迅はこうして最初の小説『狂人日記』を書いた。(『吶喊』自序)

魯迅研究家の故・竹内好先生も、「トルストイがどんなにバカになろうとして苦しんだかは、(中略)同じ苦しみを苦しんだ魯迅」(中国の近代と日本の近代)と書いているので、おそらく間違いではないだろう。

ところで、「愚者=賢人」という意見があったが、それは僕には何とも言えない。誤読だと言いかけたが、そのような解釈もまた何かを生み出すこともあろう。もしかしたら、学校でそう教えているのかもしれない。だとしたら日本の学校らしい教え方だと思う。なお、「奴隷=主人」は魯迅がはっきり言っていることのようだ。

いずれにしろ、まずは『高校生のための批評入門』の中の「中国の近代と日本の近代」を読んでみることをお勧めしたい(「奴隷=主人」についてはここに書かれています)。 

top.jpg

Comment(0)

コメント

コメントを投稿する