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ITに強いビジネスライターとして、企業システムの開発・運用に関する記事や、ITベンダーの導入事例・顧客向けコラム等を多数書いてきた筆者が、仕事を通じて得た知見をシェアいたします。

過去も他人も変えられる

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「部下のやる気向上」に違和感を感じる理由」という記事を書いたら、そもそも外部環境のせいでやる気を失うやつがいけないというような主旨の感想があった。

これは、たぶん反論ではなく、自分に言い聞かせておられるのだと思う。なので、僕もそれに対する"反論"を書くつもりはない。

これをきっかけに思い出した成功哲学があったので、それについて書きたいと思ったのである。

曰く、「世の中のすべてのことは自己責任」と考えれば成功する、というものだ。

 

かに、人のせいや世の中のせいにするのは良くない。自分が動き出さなければ何も解決しない。ここまでは同意できる。

怪しいのはこの続きだ。必ず次のような主張が続く――他人のせいにしても他人はコントロールできないのだから、自分のコントロールできることを精一杯やろう。

本当にそうか? 他人をコントロールできないのか?

できます。「笑っていいとも」で、Daigoというメンタリストを称する人がやっています。あれを見ていると、人間の選択のほとんどは、他人の影響なんだなあと思わざるを得なくなる。自分の考えだけで選択していると思っている人は、かなりの楽観主義者だ(注)。

人の心を操る技術は、マジシャンはもちろん占い師や霊媒師などにも必須のスキルだ。

成功屋にももちろん必要。

成功屋にすっかり心を操られて、突っ込みどころ満載の理論を信じ込んでいるのに、他人は操れないなどと思っている人が、例のパターン3の人々である。

(注)今こうなっているのは、自己の選択の積み重ねの結果だという人がいる。それは間違いでないにしても、では選択はどのような動機でしているのだろう。他人にいい選択をしたと認めてほしい、褒めてほしいという動機からではなかったか? であれば、人を操るのはそんなに難しいことではないし、ほとんどのことは自分の自由意志などでは決まらないということも同時に明らかだろう。外部環境や人間関係に打ちのめされずに生きていくのは非常に難しいと思うのだが。

 

たような成功格言もある――過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる。

過去はいくらでも変えられると思うが、この議論はちょっとややこしいので寓話にしてみた。下のショートストーリーを読んでいただきたい(注)。

他人についてはさっき書いた。

未来が変えられるというのは、完全な論理矛盾だ。来てもいないものをどうやって変えるんだろう?

自分がなかなか変えられないというのが、人間の最大の悩みの一つではなかったか?

「過去も他人も変えられるけど、未来と自分を変えるのは難しい」というほうが、実感として正しいように思う。

いや、本当に正しい言い方をすれば、「過去も他人も気にせずに、未来と自分を切り開こう」だ。こういう素直な言い方なら、僕のようなひねくれ者でも同意するのだが。

(注)ショートストーリーを読んで、何となくこんなもんかと思っていただければ一番うれしい。ただ、結局かみ合わないまま終わったと思う人も多いだろう。それは分かっていますが、あることを風刺したくてあえてショートストーリーにした次第。何を風刺しているかを自分で書くのは野暮というもの。考えていただければ幸いです。

 

己責任という言葉は美しい。

他人や世の中のせいにせず、人に頼られることはあっても頼りにはせず、自分を信じてぶれることなく、人の役に立つことを常に考えて生きる。そういう者に、僕もなりたい。

しかし、外部環境や人間関係からやる気を失っている人を責めることと、自分がそうありたいと思うことは、まったく別だ。

それに、やる気を失っている人の多くは、それが原因だからといって、外部環境や人間関係のせいにしているわけではない。多くの人は、自分の運命を呪ったり、自分のふがいなさを自責している。だから、鬱病になる人が増えているのだ。

重要なのは、実際にやる気がなくなってしまう人が多いということを認識し、それは何でだろうと考えることだと僕は思う。

自己責任を全うできる人は、強い人のはずだ。であれば、彼のやるべきことは、やる気のない人を責めることではなく、やる気の出ない人に手を差し伸べることではないだろうか。

<ショートストーリー>過去は変えられるか?

森川:過去は変えられると思うんですよね。

反対者:そんなんありえないやろ? まあ、簡単に反論できそうやから、先に話を聞こか。

森:ありがとう。過去って、記憶のことだと思うんですよね。であれば、記憶なんて、たとえば催眠術でも操作できる。あるいは自分自身でも、自分に都合のいいように改竄しているというのは、精神分析や脳科学で言われていることです。操作や改竄が物騒だというのなら、解釈次第でいくらでも変わると穏便な言い方をしてもいい。

反:そんなん詭弁やな。過去を変えられんと言うてる意味は、過去に起こった事実を変えることはでけへんちゅうことやないか。

森:過去の事実? それはどうやって決めるんです。

反:決めるも何も、起こったことなんやから、そのまんまやんか。

森:それじゃあ、なんで裁判で事実認定なんかするんです?

反:逆やろ。事実があるから、それを調べられるんやないか。

森:ということはやっぱり、記録や記憶でしか過去は決められないということを意味しているのでは?

反:分からんやっちゃなあ。とにかくあるもんはあるんや。それが先なんや。

森:まあ、僕は「過去の事実」というものがあるかどうについて懐疑的なんです。たとえば、どこかの山でセミが鳴いたとします。しかし、誰も聞いた人がいない。これって事実なんでしょうか?

反:またそういうわけの訳の分からんことを言う。常識で考えてえな。

森:僕の立場は、そもそも常識を疑うというものなんですが、いいでしょう。仮に「過去の事実」があるとしましょう。裁判の例に戻ると、検事や弁護士がたくさんの証拠や証人を提出する。その上で裁判官や裁判員が過去の事実を認定する。この手続きが必要だというのはいいですよね?

反:まあ、それは認めたろ。

森:で、判決が出て有罪になった。ところが、新しい証拠が出てきて、今度は一発逆転無罪ということになった。これは過去が変わったと言えませんか?

反:言えへんやろな。そういう事実があったから、その証拠が出てきたんやろが。

森:しかし、冤罪のまま死刑になった場合はどうでしょう。実際にそのようなことはありそうです。この場合は、過去の事実が変えられたまま終わったんだと思うんですが。

反:つまり、過去の事実はみんなで記録や記憶を調べた範囲で決まってしまうと言いたいんやろ。でも、それと過去の事実がないという話はぜんぜん別物やないか。

森:分かりました。それはもう立場の違いということにして、経歴詐称なんていうのはどうでしょう。これは過去を変えている実例では?

反:そんなんも、過去の事実と照らし合わせて辻褄が合わないということで、結局はばれるんちゃうか?

森:小説の中の話だけかもしれませんが、整形手術で顔を変えて、まったくの他人になりすまして生きている人がいるかもしれませんよね。死ぬまでばれなかったら、これは過去を変えたことになるのでは?

反:お前何が言いたいんや?

森:僕、実は知ってるんです。 あなたが、10年前に人をころ、うっ・・・。

反:(倒れている森川の脈を調べながら)しもた。殺すつもりはなかったんやが。これ、どうやって隠そう。

森:(幽体離脱しながら)「過去が変えられない」っていうなら自首しろよ。

 

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