AI投資の成否を分けるのは「削減時間」ではなく「経営改革」──暗黙知を競争力に変える
「AIは導入した。しかし、会社は変わらない。」
多くの企業が、いまこの壁に直面している。
7月28日にAICROSS株式会社が開催した「AI実装経営の改革セミナー」のテーマは、まさに「AI投資、回収できていますか?」だった。登壇したのは、情報経営イノベーション専門職大学教授の江端浩人氏と、AICROSS AIエンバジェリストの菊川裕司氏。両氏は、自社や支援企業での実践事例を交えながら、「AI実装経営」の本質について議論した。
本セミナーが掲げる「AI実装経営」とは、AIを導入することではなく、AIを前提に組織や仕事そのものを設計し直す経営である。
議論は、「AIは業務効率化ツールではなく、経営改革のためのインフラである」というメッセージで貫かれていた。そして、このセミナーで繰り返し語られたのは「暗黙知」という意外なキーワードだった。
AICROSS AIエンバジェリストの菊川裕司氏
「時間削減」だけでは企業価値は生まれない
AI導入の成果として、多くの企業は「○時間削減」「○%効率化」といった数字を示す。しかし、それだけでは投資回収とは言えない。
「AIによって生まれた時間を何に再投資するか」を最初から設計しておかなければ、空いた時間は従来業務をより丁寧に行うだけで終わってしまう、と指摘された。
一般的に、AIで業務時間が浮いても、明確な指示がなければ社員の約75%は「これまでの日常業務の深掘り(例:パワーポイントのデザインを無駄に綺麗にする等)」に時間を費やしてしまう。先進的と言われる企業でも、「AIで時間が半分になっても、真面目な社員は以前できなかった作業をどんどん深掘りしてしまう」という悩みが明かされた。
AIは人件費削減のためではなく、新しい顧客価値を生み出す時間を確保するために導入する。その発想に立たなければ、本当のROIは実現できない。この考え方こそ、AI投資を経営改革へつなげる出発点だ。
導入の主役はIT部門ではなく「事業部門」
印象的だったのは、「AI導入はITプロジェクトではない」という考え方だ。従来のDXではIT部門が中心となることが多かった。しかし生成AIでは、実際の業務を理解している現場が主体となり、IT部門は支援役へと役割が変わる。
営業、マーケティング、カスタマーサポート、人事など、それぞれの現場がAIを使いながら業務を改善し、その成功事例を横展開していく。その積み重ねが全社改革につながるという。「小さく始めて、大きく広げる」のは、生成AI導入において最も現実的なアプローチだ。
まず触って楽しむ──ボトムアップの文化醸成
江端氏からは、大手食品会社ドール(Dole)のユニークな事例が紹介された。「自由に楽しむ」ボトムアップ文化が育まれ、社内が劇的に変化したという。
IT部門がCopilotを導入した後、バイブコーディングを用いた社内ハッカソンを開催。「バナナの店頭価格チェックアプリ」など自由な発想で50以上のアプリが社員の手で生み出された。
AIを使わせるのではなく、試したくなる環境を用意し、「まず触って楽しむ」文化を経営陣が醸成したことが、組織文化の変化を生み、AIの社内への広がりにつながった。
情報経営イノベーション専門職大学教授の江端浩人氏
AI時代に「暗黙知」を見つめ直す
パネルディスカッションでも質疑応答でも繰り返し登場したキーワードが「暗黙知」である。
ベテラン社員が経験から身につけた営業ノウハウや判断基準は、これまで属人的な資産として組織内に埋もれていた。
質疑では、「ベテランと若手の知見をどう評価するか」という質問が出された。これに対し菊川氏は、AIが示すデータだけでなく、人間の経験や感覚も組み合わせる「ハイブリッド型」の判断が望ましいと説明した。
江端氏も、コールセンターで、「何を話したか」だけでなく、「相手の話を遮らない」「重要な場面ではゆっくり話す」といったコミュニケーションの細かな特徴まで分析対象になっている事例を紹介した。
このように、普段は言語化されない暗黙知こそ、AI時代には企業の競争力になると指摘された。
「暗黙知のスキル化」が組織を変える
では、その暗黙知をどう組織へ展開するのか。菊川氏が紹介したのは、「スキル化」という考え方だった。
優秀な社員が持つプロンプトや業務手順、データ活用方法をテンプレート化し、ClaudeやChatGPT Enterpriseなどで組織全体へ共有する。利用者は複雑なプロンプトを書く必要はなく、共通化されたスキルを呼び出すだけで高品質な成果物を得られる。さらにその先には、AIエージェントを全社展開し、業務そのものを標準化する段階があるという。
江端氏は、一人の社員が作成した「備品修理申請の自動化AI」を全社展開したことで爆発的な効率化が実現した米国の現場事例を紹介した。
生成AIは「個人の能力を高めるツール」から、「組織知を共有する仕組み」へと進化しつつあることを実感させる議論だった。
「一人+四人のAI」という新しい組織像
終盤で江端氏が紹介した製薬大手モデルナの事例も興味深い。日常業務を担うAIアシスタント、業務改善を助言するAIコーチ、専門知識を提供するAIエキスパート、そして発想を広げるAIクリエイティブ──。人間は意思決定と価値創造に集中し、それ以外はAIが支援する。将来は、一人の社員が四つのAIエージェントを従える働き方が一般化するという。
さらに菊川氏は、AIエージェント時代には「人材管理」だけでなく、「トークン管理」も経営課題になると指摘した。AIエージェントはチャット利用よりはるかに多くの計算資源を消費するため、今後は人件費だけでなく、AI利用コストも経営管理の対象になるという。
実際、大企業では「AIを積極活用せよ」と推進した結果、トークン消費が急増し、利用方針を見直す動きも出始めている。
AI実装経営の本質とは
生成AIは、もはや一部の先進企業だけのテーマではない。多くの企業で導入フェーズから活用フェーズへ移行し、「使うかどうか」ではなく、「どう成果につなげるか」が問われる段階に入っている。本セミナーは、その問いに対する実践的な課題を示した。今回のセミナーを通じて浮き彫りになったのは、生成AIの導入は技術の問題ではなく、根本的な「経営の問題」だということだ。
AI投資の成否を左右するポイントは、次の4点に集約される。
- AIで生み出した余剰時間を、どういう未来に投資(再配分)するか。
- 現場に眠る「暗黙知」を、いかに組織の共有資産へ転換するか。
- 小さな成功体験をどう全社へ広げるか。
- 経営者自身がAIを使い、挑戦を促進する組織文化をつくれるか。
DXはデジタル化を目的としがちだった。一方、生成AIは単に「業務を効率化する道具」ではなく、組織の知識そのものを共有資産へ転換する技術である。つまり、知の共有化だ。それも、スキルとプロセスのパッケージとして移転できる。人とAIが協働する新たな経営モデルへの進化である。だからこそ、経営者がリーダーシップを発揮し、組織文化を革新することが成果を左右する。
AIを使って何ができるかを問う時代は終わりつつある。これから問われるのは、「AIを前提に企業をどう変革するか」という経営者の構想力である。AI活用後のビジョンがなければ、効率化は目的を失う。
生成AIを組織の暗黙知を共有資産へ変える技術として活用できる企業が、次の競争優位を築く。そして、その変革の出発点は、経営者自身がAIをどう使い、どう組織を変えるかという意思決定にある。
私自身、近年多くの企業のAI活用を見ていても、「どのAIを導入するか」より、「経営者がどのような未来を描き、そのためにAIを使うか」が成果を大きく左右していると感じる。