成功するためには論理的でないほうがいい?
前回、A先生という方の周囲には大きく3パターンの人がいると書いた。
- A先生の本音を取り入れて、経済的に成功している人
- A先生の方法論を取り入れて、人並みかもう少し豊かな暮らしをしている人
- A先生の言葉のきれいなところだけを取り入れて、人並み以下の生活をしている人
これは何もA先生だけでなく、自己啓発系のセミナー等で"信者獲得"に成功している人の周囲には共通するパターンである。
宗教団体になぞらえると、1が教祖と幹部、2が僧職、3が一般信者だ。
で、僕がしたいことはパターン1の人たちを非難・批判することではない。
そのような誤解を受けるとしたら、それは僕のひがみ根性に原因があるのだろう。ただ、それは本当に誤解である。営業妨害は僕の本意ではない。
僕がしたいことは、パターン3に陥る人を減らしたい、このことである。
また、パターン2については、むしろ尊敬していると申し添えておこう。
成功の定義はしないのか?
本題に入る前に。
以前から何人かの方に成功の定義はしないのかと問われた。
これは難しい話であるが、このブログでは単純に割り切りたい。
このブログでいう成功とは、経済的な豊かさと社会的地位を獲得し、才能も認められている状態をいう。
言い換えると、羨望の対象になり、本人も(内心ではあっても)それを喜んでいることだ。
これは尊敬されているかどうかとは関係なく、ましてや自己実現(好きな言葉ではないが)とも関係ない。そのうえ成功した本人が幸せかどうかとも関係ない。
成功者は非常識
さて、本題に入る。
成功哲学に突っ込むという企図が成立するためには、成功哲学に突っ込みどころが多いことが必要である。
結論を言えば、成功哲学は突っ込みどころ満載である。
これは、成功者というのが非常識だからだ。成功哲学は、成功者の説くこと、あるいは成功者を分析して抽出したものだから、突っ込みどころが多いに決まっている。
常識通りにやっていて成功するわけがないでしょう。まず、このことに思いを至らせてほしい。
一番多いのは、中学の数学で習う、必要条件と十分条件を理解していない、つまり論理の初歩を理解していない成功者だ。
必要条件と十分条件についてはほとんどの読者は理解していると思うのだが、念のためおさらいさせてください。わかっている人は次の小見出しまで読み飛ばしてほしい。
「AならばB」という関係が成り立つとき、AをBの必要条件、BをAの十分条件という。集合でおなじみのベン図で表現すると、十分条件は必要条件に包含される図になる(上図)。
実は偉そうに言っている僕もよくごっちゃになる。そういうときは具体例で考えるのが一番だ。
正方形と長方形の関係を考えてみればいい。正方形でない長方形は存在するが、長方形でない正方形は存在しない。正方形であれば必ず長方形であることが求められる。つまり長方形が必要条件。また正方形は長方形の条件としては過剰である。つまり正方形が十分条件。
正方形→長方形ということだから、左側に来るのが十分条件、右側に来るのが必要条件。
必要条件と十分条件がわかっていない成功者たち
それでは、必要条件と十分条件の違いを成功者が理解していないことを具体例で説明していこう。
多くの成功者が、あきらめなければ成功する、という成功哲学を語っている。
先に結論を言うと、これはまったく論理性を欠いている。
わかり易いように、「あきらめない」をA、「成功する」をBとしよう。
B→Aのほうは自明だ。日本語にすれば、「成功した人はあきらめなかった」となる。
成功している人は100%、成功するまであきらめなかった人だ。中には一発目で成功してしまった運のいい人もいるだろうが、この人だってあきらめてはいない。
つまり、B→Aは成り立つ。説明するのもばかばかしいことだ。
ここで間違わないでほしいのは、B→Aが成り立つからといって、A→Bが成り立たないとは限らないということだ。A→BかつB→Aが成り立つ場合があり、これを必要十分条件という。集合がまったく重なり合えばこういうことが起こる。
なので、僕が「成功した人はあきらめなかった」が正しいと主張したからといって、「あきらめなければ成功する」を否定したことにはならない。
しかしながら、あきらめなくても成功しなかった人がいるということが言えれば、その瞬間「あきらめなければ成功する」は間違いだと分かる。
具体的に誰とは言わないが、そんな人たくさんいるでしょう。周囲にそういう人が一人もいないのなら、あなたは恵まれた環境にいるか、世の中の現実から目を背けているかだ。僕は場末の酒場で飲むことが多いので、そんな人はたくさん見ている(そのたびに身につまされますが)。
よって「あきらめなければ成功する」は論理的ではない。
以上の理屈がよく分からなかった人は、下の図をごらんください。
無限の時間があって、無限のトライができるのなら、もしかしたら「あきらめなければ成功する」というのは成り立つかもしれない。ただ、これだってあくまで可能性によりかかった話であり、永遠に証明できない命題なのである。
しかしながら、多くの成功者(そして広告代理店なんかも)が、「成功した人はあきらめなかった」という自明の法則を単純にひっくり返して、「あきらめなければ成功する」といううそをつく。紛らわしいので、引っかかる人がたくさん出てくる(注)。
やれやれ。
(注)言うまでもないことだが、「途中であきらめた人は成功しない」は正しい。これは、「成功した人はあきらめなかった」の対偶と言われるものに該当し、元が真ならば、対偶も必ず真であるからだ。「あきらめなければ成功する」は「成功した人はあきらめなかった」の逆と言われるものに相当する。「逆は必ずしも真ならず」ということわざがあるが、たいていの場合「逆」は間違いである。
成功者はなぜ強弁するのか?
ということで、成功者のいうこと、すなわち成功哲学は、しばしば論理的ではない。こんな例は枚挙にいとまない(ので、こんなブログを書いている)。
ただ、それを成功者本人に指摘してはいけない。
自分の論理性のなさは、まったく棚の上に上げて、切れるか、説教するかどちらかの態度を取られる可能性が高いからだ。
僕の場合は、このようなことをすぐに言うので、A先生には「森川君は斜に構えた人間だ」と説諭された。また、ある高名な先生の論理を「循環論法」(注)だと指摘したら、切れられたこともある。
なぜこのようなことになるのか?
以前は、強弁や詭弁に達者なことが成功者の条件だからじゃないかと思っていた。白いものを黒といいくるめる、この能力こそ成功者に求められると考えていたのだ。
ところが最近どうも違うと思うようになった。
彼らは、はっきりと論理に弱いようなのである。そして、それは成功者にとっては強みなのである。
いまの狂った世の中(昔からか)で、論理的なことを言っていては成功などおぼつかない。ましてや常識にとらわれていてはいけないのである。
たとえば、「あきらめなければ成功する」などというのは論理性がありませんよと否定されても、そんなことは無視する。そして、こう切り返すのだ。
「あなたの生きている間には成功しないかもしれません。しかし、後世にあなたの志が伝わり、あなたの名前が千年後にも伝われば、それは成功ではないでしょうか」と。
実際、論理よりもこういう話のほうに人が共感する。であれば、成功者には論理性など百害あって一理なしなのである。
ただ、こんな話に共感する人は、パターン3へとまっしぐらだということは指摘しておきたい。
(注)循環論法とは、あることAを証明する際にAを前提にしてしまう論証法である。一番簡単な例を挙げると「うちのネコはかわいい。なぜなら私はかわいいネコしか飼わないからだ」。要するに「俺ってなんにもゆってねぇ~」(by.スチャダラパー)ということなのだが、これも成功哲学には多いパターンである。
東進ハイスクールのCMの「じゃ、いつやるの? いまでしょう!」という先生、うっとおしい。いつやるかぐらい、てめえで決めさせてほしい。ああいう強迫観念につけこんで人を動かす成功哲学についても、そのうち突っ込みます。