マズローの「欲求五段階説」をフランクルは「ちと違うのではないか?」と述べたと聞いて、目からウロコが10枚落ちた
オルタナブロガー仲間の佐々木康彦さんのエントリーを読んでいたら、ビクトール・フランクルのことに触れられていました。
ビクトール・フランクルと言えば、『夜と霧』で超有名な方ですけれど、大学生の時もよくその名前は授業に出てきました。「宗教学」とか「愛となんとか(←忘れた)」といった授業で。
でも、なんとなく敬遠し、『夜と霧』すら読んでいなかったのですが、ここ2年ほど、再び、フランクルの名前や彼が残した言葉をあちこちで見かけるようになりました。
1つは、昨年2012年4月から通っている上智大学グリーフケア研究所主催の「グリーフケア講座」にて。 医師、宗教家、身内を亡くされた方、災害被害者の方などがいらっしゃって輪講形式で進むこの講座では、講師の方たちがしばしば「フランクル」を引用されます。
そして、もう一つは、勤務先で業務提携し、私の認定講師になる準備を進めている「7つの習慣(R)」の著者スティーブン・コヴィ氏もフランクルを信奉していて、たびたびその著書の中で引用しています。非常に影響を受けた一人だそうです。
・・・・というわけで、最近、にわかにフランクルが身近な感じになっているので、佐々木さんのブログも目に飛び込んできたのですが、ここで話したいのは、フランクル自身のことではなく、佐々木さんが書いていらっしゃった「マズロー批判」について、です。
マズローは「欲求五段階節説」で超・有名ですが、この説は、立証できないというような理由から、心理学の教科書などでは「ま、そういうことを唱えてはいたから紹介しておくけどね」という扱いになっているようです。 ただ、心情としては、なかなか納得がいく説でもあるので、今でも多くの方が引用します。私も本の中で参照したりします。
この説は、低次の欲求が満たされなければ、高次の欲求は湧いてこない、欠乏を埋めてから次の段階に進むといった考え方を表わします。
つまり、「生理的欲求」が満たされなければ「安全の欲求」は湧いてこず、「生理的欲求」が満たされたら、「安全の欲求」が湧く。それも満たされたら、「所属・愛の欲求」。満たされたら「承認の欲求」・・となるというものです。
ですが、フランクルは、佐々木さんのブログから参考にさせていただくと(って、原著を読んでないので・・。すみません、これから読みます)、
「低次が満たされないような極限状態にこそ、高次の欲求が際立ってくるんじゃないか」
といった視点を提供しているというのですね。(↑意訳です)
ああ、そうか、そうか。
空腹なんてことだけじゃなく、生きられるかもわからない、命掛け、の状態になった時、人は、「人としての尊厳」を何物にも代えがたい崇高な、目指すものとして捉えるのではないか、という意味だとわたくし、理解いたしました。
マズローを「ああ、わかる、なんとなく、わかる」と思っていた私は、平和な中に生きているからそのことに気づかなかったんだなあ、と、夕べは、とても大きな気づきと学びがありました。
佐々木さん、どうもありがとうございました!
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そして、永井さんもフランクルのこと、書いていらっしゃったのですねー。
フランクル、私も読みます。
【『夜と霧』からいかず、これに挑戦しようと・・・グリーフケア講座で紹介されたので・・・】