「何にもない」と「何でもある」の間で、ボクらはどんな「地域の価値」を伝えるべきだろう?
こんにちは、竹内義晴です。
昨日、パーマをかけました。髪の毛を伸ばしはじめたのはおそらく2015年ぐらいからで、ここ数年はずっとロン毛パーマです。「たまには髪型を変えてみたいなー」とも思いますが、コレ!という髪型はなく、かといって、いまの髪型も気に入っているので、同じような髪型が続いています。
さて、1/20に、NHK新潟放送局で放送されている「新潟ニュース610」の「にいがタグっと」というコーナーで、妙高市のワーケーションを取り上げていただいたのですが、美容院に行ったら「テレビ、観ましたよ」と言われました。
その流れで、髪の毛を切っていただきながら、いま、とりくんでいる仕事や、妙高の魅力の話になりました。
今回に限らず、ワーケーションの事業に取り組んでいる関係で、雑談をしていると、よく「妙高の魅力」の話になることがあります。これまで、いろんな方と、いろんな話をしてきました。
で、「妙高の魅力」の話をしたとき、大きく分けると、2つの意見に分かれることに最近気づきました。
1つ目のパターンは、妙高には「何もない」という意見です。一応観光地なので、自然や温泉、食文化などはあるし、スキーもできます。でも、だからといって、「妙高といえば、コレ!」というものがない......というのが「何もない」のゆえんです。
2つ目のパターンは、妙高には「何でもある」という意見です。「妙高の自然には、他にはない魅力がある」「自然のほかに、温泉も、食もある」「妙高最高!」「何でもあるのにもったいない」っていう話です。
体験している現実は変わらないのに、2つの解釈があるなんて、おもしろいなーと思います。確かに、ある見方をすれば、妙高には「何もない」し、ある見方をすれは「何でもある」。おそらく、これは見方の違いで、どちらが正しいというわけではないのでしょう。
だけど、ボクには最近、この「ゼロか100か」のモノの見方や伝え方自体に問題があるのではないか......と、思うようになってきました。
まず、魅力が「何もない」というモノの見方や伝え方。「何もない」ところに、人は行きたいとは思いません。地域の魅力を伝えるためには、何もないように見えるところにある「何か」を見つけて、分かりやすく伝える必要がありそうです。
次に、「何でもある」というモノの見方や伝え方。こちらは、「何もない」と比較すると、前向きだし、その見方としてはとても大切だとは思います。
一方で、伝え方には問題があります。それは「何でもある」と言われても、具体的なことがイメージできない。その結果、「選べない」ことです。
それはまるで、おいしいと評判のレストランに連れて行かれたときの、メニュー選びと似ています。
たとえば、おいしいと評判のレストランに連れて行かれたとき、はじめて行く人にとっては、何がおいしいのか分からない中でのメニュー選びは結構、難しいものです。そんなときに、目星をつけようと「このお店は何がオススメ?」と、連れて行ってくれた人にたずねることがあります。
そのときに、「この店と言えば、まずはコレだよ」とか、「人気なのは、コレとコレだよ」とか、「私が好きなのは、コレとコレだよ」とか、何かしらの選択肢を与えてくれたら選ぶことができますが、「全部おいしいよ」って言われると、選ぶ側としたら、何がいいのか分からないので困ってしまいます。
もちろん、「全部おいしいよ」に悪気はないはずだし、実際、全部おいしいと思っているのかもしれない。むしろ「良かれと思って」かもしれない。けれども、こういう「全部」だからこそ伝わらないコミュニケーションのミスって、結構あると思うんですよね。地域の魅力を伝える際も、これと似ているところがあるなーと思っていて。
「何でもあるよ」「来れば分かるよ」だと、むしろ、何も伝わらないし、選ぶ側からするとちょっと不親切。「何にもない」と「何でもある」の間にある、何かしらの「価値」を、分かりやすく伝える必要があるんじゃないかなーと思います。しかも、自然、温泉、食、酒といった、どこにでもあるものではない伝え方で。あるいは、新たな意味づけをして。
まぁ、それが難しいんですけどね。逆に、それがうまく言語化できれば、いままでとは違う何かが動き出すかもしれない、と。
というわけで、2021年は「何にもない」と「何でもある」の間にある「価値」を伝えることに、力を入れてみたいなーと思っています。