あんなに格好良かったKnowledge Navigatorの世界が形になったようなGoogle Now の話を眺めながら感じる気持ち悪さは何なんだろう
Appleが1987年に作ったKnowledge Navigatorという映像を知っている人はもう少ないかもしれません。タッチデバイスや音声制御で色んな場所で色んなコミュニケーションを取る「未来の世界」が題材だったプロモーション映像です。勿論あの頃は全部夢の世界。たとえばオフィスでPCが1人1台という環境すら普及していなかった頃の話。気分は完全にSFの世界。
そしてあれから25年。デバイス周り、映像や音声の処理技術、そしてネットワークの環境など、実はそこに描かれた世界がホボホボ実現できる状況になりつつあります。技術的には。でも…
Google Nowに関する情報を見て感じる気持ち悪さの予感
いや、これは別にGoogle Nowに限ったことではなくて、それこそビッグデータと称されている流れの中での個人の動態分析からパーソナライズした情報を手に入れることができるようになるよ系の話に大抵共通して私はなんだか気持ちの悪さ、というか居心地の悪さを感じたりします。
因みにGoogle Nowについて言うとプロトタイプの記事が出てきた程度の状況ですから、それ自体を云々する段階ではありません。ただしそれが実現しようとしている世界が、なんとなく、それこそビッグブラザーの存在を彷彿とさせるような「私の事を何でも知っている誰か」のような存在と向き合うことになるような気がするんですね。でも、それが嫌だからと言って山に篭ってしまうのも現実的ではない。
理解している範囲、そして知らぬ間に情報が集められ分析され利用されるのは止められないとは思うのですが
このあたりはチャットベースのサービスでもSNSでも物販でもポイントカードでも文面とかの内容を見ていろいろやるぞ言ってるメールサービスでも、単純なトランザクションやログではなく複数の動静記録を元に属性を定義して何かしらを提供する事を志向するものに対して共通に私が感じることだったりします。
もちろんそれは何かしらの杞憂なのかもしれません。ただ、何時の間にやら当初理解していたのとは違う範囲で情報を収集され分析され利用されるようになり、それがそれらのサービスなり何なりを提供する側の業務提携や資本提携などを経て複数の企業なり組織なりで利用されるのが規約上問題ない形で処理されてるのを後から気が付いたりするのは決して気持ちの良い話ではありません。ましてや、その企業なり組織が日本籍で無い場合に法的な立場や権利はどうなるんだろうとか、色々と考え込むネタはあります。
いわゆるビッグデータの活用のひとつの形として色んな企業や組織がそういったことを結果的に考えているわけですが、どうなんだろうなぁと思う事が無いかというと、そんな事は無いわけで、でも、それら全部を避けて通れないのは意図を持って特定の国の産品を避けようとしても現実としては無理であるのと同じくらい難しくて、はてさてとなるんです。
Knowledge Navigatorが描いたのはオーソン・ウェルズの描いた世界とは微妙に違うけれど
大昔にSFの世界の延長で描かれた夢の世界が技術的にドンドン実際に形として実現できる状況にはなりつつあると思います。ただし技術的な話と心情の話は別ですし、社会通念という考え方もそんなのを全く意識しない夢の世界から現実に持ってくる時点で色々と意識する必要はあるわけです。
技術の進歩が色々と役に立つのは百も承知ではありますし、その流れが無いとITから通信という経歴を持った今の私も居ないわけですが、でも、気持ち悪さという部分はなんだか払拭できないんですね。
とはいえ、食わず嫌いは駄目だとも思ってるので、Google Nowに限らず、そういうサービスが出てくればとりあえず触ってみる程度の好奇心だけは持ち続けていますが。