オルタナティブ・ブログ > THE SHOW MUST GO ON >

通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

目の前にある「ソーシャルな何か」という存在が永続する理由は何処にも無いというのは基本的了解事項であるべき

»

基本的に「ソーシャルな何か」を提供するサービスに分類されるものの基本的な立ち位置は、誰かと誰かが何かを共有する場を提供する事。それが文字なり映像なり何なりを媒介として交換されるわけですが、基本的に誰か相手がある話であれば必ずそこに何らかの感情が入り込むのは当たり前。このあたり対面での人間関係と結局同じなわけで、完全に閉じた世界だけに生きてるのでなければ常に変化してるものです。

ある瞬間に距離を置きたくなる事もあれば、妙に近くに居たくなる事もある。他人の話であればこの精神的な距離感というのを論理的に説明するのはそれほど難しいことではないし、実際にいくらでも話題に出来ると思うのですが、同じ論調で自分の事を冷静に分析できたり、あるいは誰かの分析のネタにされるほど苦痛な事はないよね、と思うんですよ。

でも、時々は冷静に考えたほうが良いよねと思う今日この頃ではあります。

 

経験値が変える距離感という感情は徐々に場に変化を求める

何年も通う飲み屋とかの入り口をくぐるときっていうのは、常に昔と同じような場の空気を求めるものです。特に以前はともかく最近はそれほど頻繁に通わなくなったようなところだと、それが強くなる気がします。あるいは以前に行った事がある思い出深い観光地とかも似たようなものかもしれません。でも、その場はその場として常に変化しているわけで、あまり昔の面影に強く依存すると残念な感情だけが残ってしまうこともあります。本当に昔の思い出なんてどうでも良いくらい時間が経った後に訪れて単に昔を懐かしむだけなら良いのですが、まぁそこはその人なりの思いが支配することですから、他人がとやかく言う筋合いの物ではない。

で、何が言いたいのかって?いや、あのですね、要は「その場に居て心地よいのは、心地よく感じる状況がそこにあるから」というのを忘れちゃいけないということ。そのなかで厳然と「場」だけが存在し続けることもあるでしょうし、その「場」自体が変化する事もあるし、その「場」を取り巻く環境が変化することもあるし、もちろん「場」に対する自分は変わるだろうし。

 

変化が激しい状況に置かれている「場」で商売するということの難しさをソーシャルな何かの世界に見る

こういう話自体は常々持論として持っているのですが、それを新たにしたのが吉川さんの特定のソーシャルメディアにユーザを引き止めるためには,というエントリー、そしてその中で参照している渡辺聡さんの「ソーシャルジプシーに安住の地はあるのか?」というコラム。そもそも持論としてという話の裏側で、当然ですが各所で色んな議論をしていますし、たとえばTwitter上でフォローしてる人の発言も含めた各所での色んな立場の人の考えにも触れるようにしています。

ただ私としては多くの場合、そこに微妙な違和感を感じる事があるんです。つまり「場」を立ち上げる、あるいは「場」を維持する立場の方の声がどうしても大きくて、ユーザーの動態を説明仕切れていないことが多いんじゃないかなぁという獏とした違和感なんです。それがベースにあるので、たとえばFacebookが主流になったぜとかGoogle+はそれらを凌駕するのかとか言う記事なりコラムを見ると、「どんな時間軸での話をしてるのかな?」と若干シニカルな考えが頭を巡るんです。

たとえばGoogle WaveがどうだったとかMySpaceの顛末だとか、そういうサービスが他山の石とするべき事例は多くあるのですが、私の観測範囲だとどうしてもサービスのメニューの話とか収支が合わなくなった理由だとかそのあたりの話に終始するものが目立つんです。それ自体は私の観測範囲の狭さゆえなのかもしれませんが、その前提となる「そもそもユーザーって誰で、それぞれが何を求めてて、それがどう変化すると思ってるのか、あるいは思っていたのか」って所がそもそもの問題じゃないかというところがどうしても頭を離れません。

 

重要なのが「それがどう変化すると思っているのか、あるいは思っていたのか」というところ

人は移り気です。しかも経験値によって以前とは全く違う行動をしてゆきます。そういう人たちに対して何かしら提供しようとする立場であれば、それをどこまで追いかけてゆくのか、状況によってはリードできるのか、でもどこかで間違いなく追い越されたり置いてきぼりを食らうわけで、ならばそもそも提供しようとするもののライフサイクルはどれくらいであって、極端な話として一体何年間それで喰える話になるのかとか、そういうコトを突き詰めて考える事と言うのは・・・もちろん大変ですし、何かしら事業を起こそうとするのであれば賞味期限を最初から規定するようなものであれば、それこそ誰も出資してくれません。基本的には。

もちろん起業と事業継続というのはある意味別人種の仕事ですから、そこは分けて考える事が出来るかもしれません。でも、賞味期限的に事業全体やそこが提供するサービス、あるいは自分の問題として自分が使うサービスの賞味期限、そしてそもそも自分が何時までそれを飽きずに使えるかとか、更には使ってきたのかなどを時々冷静に考えるべきだと思っています。

未来永劫使いたいと思うものがそこにあればそれはそれで凄いのですが、間違いなく1年とか2年とかで飽きるはずです。それから乗り換える何かが目の前に現れたら、途端に以前の輝きは錆付き始め、そのうち飽きてしまう。人ってのは所詮そんなものです。

少なくとも時々何かに強くコミットメントしつつも飽きっぽい私としては、その時点で自分が気持ちよく収まれる何かを求めて彷徨うわけですが、とりあえず「ソーシャルな何か」という部分において単なるユーザーである私のその行動が誰かに責められる事は無いと信じています。

ただ(これはどんな職業であれ業種業態であれ近いところがあると思うのですが)自身が何かの提供者であると同時に利用者の立場になることも有るというときに、それをどこまで冷静に見る事が出来るか。あまり強い視線でそれらを見てしまうと辛くなるし、かといって視線を変えすぎるのも難しい。

 

ということでぐるっとまわってソーシャルな何かの話に戻ると、そもそも永続しないし変化できないものは残らないし残れないしというところを見る視点が必要な訳ですが、それでもその瞬間に使っているサービスなり何なりに残す自分の足跡への愛着がどこかにあったりします。そこに永続性を信じたい気持ちがあったりするんですが、その裏側で企業や事業の継続性の問題とかですね・・・

だめです。難しく考え始めると何も使えなくなりそうです。

 

Comment(0)

コメント

コメントを投稿する