無かった事にする体質
人間誰しも自分に都合の良くないことは無かった事にしたいと思うものです。もちろん内容にもよりますが、そこで素直に謝るとか言う行為に移るのにはそれなりのエネルギーが必要です。ただ、それを避けて通れない事が多くあるのも事実。さらにもちろんそれが過失なのか偶然なのか、基本的なところで責任が自分に帰するものなのかどうなのか等によって状況は様々です。
ただ、ものには限度があるわけで…
個人であろうが無かろうが
もちろん色々な事情があるのは判ります。そこに対して「そんな事情はどうでも良いから」と突っ込んでゆく姿勢が必要とされる場合があるもの判ります。因みに私自身として何かしら隠したい立場には色んなバイアスを感じることがありますが、それと同時に単純に「知る権利」というところで突っ込んでゆくという立場自体に強いバイアスを感じる事もあります。もちろんそれらを眺めながらいろんな事を考える私自身の思考にもある種のバイアスがかかっているわけで、それらの併せ技の結果として何がどうだという話は結局のところそれを受け取る自分自身が判断するべきことだと、私は考えています。
このあたりが道義的にどうだとか、社会通念上どうだとか言う判断軸が入ると更に面倒くさくなるわけですが、ただ一定のブレ幅が存在しつつも何となくベクトルは存在するんじゃないかと思っています。それを踏まえつつ…
「調べもせずに埋めてしまってどうするんだろうね」という思い
例の中国の高速鉄道の事故の話について、私自身はその思いを禁じえません。統治体制や思想的なところに深く入り込むつもりはないのですが、そもそも国家としての威信をかけた鉄道事業に降りかかった事項について何かしらの調査を完了できたと思えない状態で地面に穴を掘って埋めてしまうという行為は、流石にいかがなものかという思いを禁じえません。
更に言うと、それが海外のメディアの前、そして結果的に衆人環視の中で行われているというコトがどういう風に理解されているのかというコトを何処まで理解しているのか、理解していないのか、そもそも考慮していないのかなど、いろんな事を考えさせられる事象です。
もちろん日本とは異なる文化、異なる思想、異なる統治体制、異なる歴史的経緯を持った地での出来事ですから、単純に日本の尺度で評価する事は出来ません。このあたりについては例の原発関連の対処方法における各国政府、各機関、あるいは報道を見ている多くの人の評価と同じなのかもしれません。もちろん対外的な評価だけを軸に物事を進めることは出来ません。当然自分の足元での評価なり事情なりを鑑みつつ対処し、必要な策を講じる必要があるわけですが、それに対する直接の関係者の評価とは別に、周辺の評価というのは存在するわけですし、最終的に当事者の足を掬うことに繋がることも当然ですがあるわけです。
現状の自国が抱える事情や状況を棚に挙げて他国で起きた事象について云々と言うのはいささか心苦しくはありますが、それらを全部含めて自分なりに考えるに、それぞれ個々人の評価は別として「やっぱりそういう統治体制なのね」という意識を持たないとしたら、それはむしろおかしいんじゃないかと思うんです。
自国の事を棚に上げて、という話ですが。