どこまで何を想定するかという事と危機管理という事の間にある意外な溝
たとえば組織的に何かを行うときには、その企画を立てる段階で何かしら前提を立てるわけです。一定の目標を立て、それに対する阻害要因を分析し、全体として上手く機能するように組織を編成し、実行段階に映してゆくという一連の流れがあるはずです。
もちろん何をどこまで考えるかというのはその母体となる組織の文化なり行動原理なりによって異なる訳ですが、どんな企画も基本的には成功する事を前提として立てられるはずです。もっともそれ自体が結構ギリギリの予算とかスタッフィングで構成される事もままあります。
そんな中で想定外の事が起きたときに何をどう対処するのかというのが当然問題になるわけですが・・・
(狭義の)余白を考えるというコトが欠落する
上手く行くことが大前提である場合、上手く行かない場合の対処方法や対策が後手後手に回るのはよくある話です。また、いろんな理由で上手く行っていないことを公にする事が憚られることもあります。そうすると何が起きるか。まぁ平たく言うと手遅れになる、ということが往々にして起きるわけです。
もちろん最初から非常に大きな冗長性を持たせる事が許される組織というのはあまりありません。そもそもの規模によっては緊急対応のためのチームを温存させたままいることも難しい。となると、どこかで火の手が上がるといろんな人が大慌てになるわけですが、よくよく考えると実は世の中、上手く行かなかった何かしらの「企画」の話というのは割りと流通します。その中にはメディアに取り上げられるほどの、あるいは何かしら社会的な問題になる物もあれば、関係者の間では非常に有名になるレベルで収まるもの、果てはなんとか内部の関係者だけで納めてしまうものと色々です。
大抵の場合、予兆を上手く捉える事ができなかったとか、あるいは(意図的かどうかは別に)予兆を予兆と捉えずに気が付いたら火を噴いていたみたいな形で語られる事が多かったりするわけですが、そんなときでも現場レベルでは最初から、あるいは途中からヤバイぞという空気はあったりするケースが結構あると思います。不肖岩永も人生が長いもので幸か不幸かそんな空気の中で七転八倒したことも何度もあります。
そうなった場合、可能な方法でアラートを上げたりするのですが、元からいっぱいいっぱいの体制で転がしていたという事情もあったりしてそれらの問題に対処するチームなり何なりを編成できないまま火を噴き、結局駄目になってしまった「企画」に携わった経験も勿論あります。
全体としての余剰を抱えることは難しいけれど、それでも少しくらい余白があればその部分を余力として対処できたのになと今でも思うような「企画」もあります。もちろんそれぞれそれなりに理由があるんですけどね。
とはいえ上手く行くものもあるわけです
これが所謂事例と呼ばれるもの。たとえばシステムとかソフトウェアとかサービスとかの事例広告で、実は導入した直後に取り上げざるを得なくて、でも実際のところ導入は上手く行ったけれどまだキチンと効果が出るほどには使ってないんですよ系のモノもあったりします。自分自身過去にそういう話をプロモーションの一環として取り上げたこともあったりしてそれなりに関係各所に御迷惑をかけてしまったこともありますが、まぁその段階はともかく上手く行く「企画」もあるわけです。
上手くいった理由というのは一定ではありません。もちろん上手く行かない理由も一定ではないのですが、ただ後者については「余裕の無さ」と「背伸びしすぎ」が結構な比率であるような気がして居ます。あくまでも私の経験上の話ですが、普段目にする諸々の中でもそういうものが結構あるような気はして居ます。
いずれにせよ、上手く行くものと上手く行かないものがある。後者が存在している以上、何かを考えるときに前提条件として冷静に状況を判断し、対処する方法をあらかじめオプションとして用意できているかどうか。
漠然とした話ですし簡単ではないのですけれど、不謹慎だとかそういう話ではなく、何かを始める前にありとあらゆる良くない事を考えておくのは悪いコトでは無いと思うんです。それが国家レベルであっても、社会レベルであっても、企業レベルであっても、そして個人レベルでも。