専門家の顔をするなら、それなりに専門知識と呼ばれるモノを持っているべきなわけで
世の中、いろんな分野の「専門家」と呼ばれる人がいます。そしてそれぞれがそれぞれの立場でいろんな事をやり、言うわけですが、どこかで自分の専門分野を踏み越えて話をする事があります。私的には、その自分の専門ではない部分では謙虚に「自分の専門分野ではないがこのように理解している」と言えるかどうかってのが大事じゃない無いかという考えを持っています。
もちろん「専門家」とまで言わなくても、結構本物の「専門家」と渡り合えるくらいの知識を持ってる分野ってのがある事もあります。趣味性の強い部分であったり、あるいは何かの流れで深く知る事になった分野であったり。
それがその人の知識の引き出しと言えるんじゃ無いかと思うんですね。
素人であるはずの人から見て「それは専門家のいうコトじゃないだろ」と思えてしまう部分
もちろん、本物の「専門家」にとって、いわゆるコンテクストを理解した上で場に応じて発言をコントロールする場合ってのはあると思います。かく言う私も、純粋に自分の専門分野についての話をする場合に、受け取る側の状況に応じて話し方や、話す内容を変えます。そのほうがキチンと話を理解してもらえるなら、当然そうします。
ただ、専門分野から一歩踏み出した部分に言及したときに、計らずも知識の貧困さや理解の朝さが露呈する場合ってのがあります。それがその分野の専門家の耳に入ったとき、そしてそれについて言及したときの前後の経緯がキチンと伝わっていない場合に「何を言い始めてるんだよこの素人が!」と無用な摩擦を生む事もあります。
私にもそんな経験があります。残念ながら結果的にそうなってしまったときのリカバーというのは大変なのですが、弱気が売りの私の場合、素直に知識不足を謝り、素直に教えを請うという姿勢を忘れないように努力しています。上手く行けばそれで専門家からきちんとした知識を得る事も出来ますし、その専門家とも知り合えるチャンスにもなるわけですし。
しかしモノには限度があるわけで
明らかに専門分野であるはずの部分について、たとえば素人である私の目から見ても「それは違うでしょ?」と思う部分があったりします。もっと酷いのは、私の専門分野と重なる部分において「それは違うでしょ?」と思う部分が見つかったりもします。
もちろん自分自身がそういう風に思われることもあるでしょうし。
でも、そこで「私はこれこれこういう理解をしている。それと違う理解があるなら、是非とも意見交換をさせてください。」という素直な気持ちで相手と話ができるかどうかが勝負だとは思うんです。余程の頭脳の持ち主でないかぎり、「専門分野」といえど、その物事に関わる全てを一人で把握し理解している事は無い。一匹狼では暮らせない。
それが、たぶん、既に死語になった「集合知」だと思うんです。
何であれ、専門家と思える部分があるのは良い事だと思います。ただ、凍りついた知識ではなく、常に最新情報や間違った旧い情報の訂正でリフレッシュされてゆくのが専門家としての知識でありノウハウであると思うんです。
多分に自戒を込めて。