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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

電力供給の問題を踏まえつつ、先手を打つために考えなくてはいけない事

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いろんな物事を考えるとき、当然何らかのベースがあって、そのうえで何かを考える訳です。禅問答みたいですが、いいかえると「過去では無く今が物事を考える基準点となる」ということ。でも、これで物事が上手く行っている間は良いのですが。

 

今のインフラが無くなったら「それ」は実現できるモノなのか、あるいは必要なモノなのか

今目の前にある状況を元に先を考えるのが或る意味当たり前。今の先に未来があるんですから。でも、たとえばそこで実現させようとしていることには当然それを思いつくまでの経緯があるわけです。それが無いと困るとか、それが無くてはどうにもならないというモノもあるとは思います。でも、大抵の場合、それが無かった頃があるわけです。だからって安易に「そんなの無くてもいいじゃん」とは言いません。でも、無い状況を想定しておくことってのが大事なモノってのはあると思うんです。

もちろん程度問題。すべてのモノに対して一律に適用する事は出来ないと思います。でもね・・・

 

回避のためのバックアッププラン、駄目になってしまったときのバックアッププラン

ITシステムでも日常の生活でも多かれ少なかれあるはず。A案が駄目ならB案、更にC案・・・とあまりにバックアップばかりだと「お前そもそも何やってんだよ」と怒られるわけですが、それでも何かしらのプランの中で途中に潜むトラップを見つけ、本筋に戻すために起きるであろう事を想定しておくことってのは珍しいコトでは無いと思います。

あるいは、何となく想定していたものにある瞬間ガラっと切り替えるような事も当然あると思います。いずれにせよ、最初に考えたプラン一本槍っていうのは実際には現実的では無い。

もちろんそれらも程度問題。でも、前提が全く崩れてしまったときにどうするかってのを頭の隅っこでぼんやりと考えておくのは決して悪い事でも損な事でも無いと思います。だから・・・

 

基本的に物事は先に進むもの、過去は過去として記憶にとどめておくもの、だけれど

今目の前にあるモノが当然いつまでも存続し、更によくなってゆくのが前提、というコトは多いと思います。もちろんそうあるべきだし、そうでなくてはいけない。それは間違いない。でも、それらの裏側にあるべきインフラが駄目になってしまったときに何が起きるかって事については、実はいろんな実例があります。

たとえば知人との話で時々たとえ話に出るのが、キャプテンと呼ばれたビデオテックスのサービス。当初はマルチメディアの最先端であると喧伝され、多大なコストをかけてネットワークを引き、端末機器の普及を図り、コンテンツを一生懸命につくって・・・ってサイクルがずっと続くと思われていたのですが、いろんな理由であっという間に廃れてしまい、既に歴史の中に納まってしまいました。

もちろん他にも同じような末路を辿った製品やサービスなんて山のようにあるわけですが、それらを企画した人たちが持った夢や理想を云々言う気はありません。温度差はあったにせよ、いろんな夢をそこに載せていたわけです。ただ、その夢や実現されたサービス、あるいは形になった製品が結果的に上手く市場に受け入れられなかったという事実はあります。

ただ、そのために作ったインフラとかデバイスなどが別の形で生き残った例っていうのも多く存在します。ひとつひとつを紹介するわけには行かないですが、それらの礎の上に今があるわけで、先人の貢献の上に今があるというコトは忘れてはいけないと思うんです。

でもやっぱりそれらは程度問題。図らずも別の形で次の世代に手渡されたもの、言い換えればDNAみたいなものってのはとても貴重。それがあるから今がある。でも先に進む事だけを考えていても良いのだろうか?

 

電波は有限な資源。電気も有限な資源。固定回線の容量も実は有限な資源。

人には超えることが出来ない物理法則や、物理的な制限による限度があるのがこれらの資源です。その道の専門家であればそれらの限界っていうのは大体判っているわけです。技術の発展の度合いや状況も判っているわけです。いきなりのブレイクスルーっていうのは基本的には無くて、発展してゆくロードマップが大抵の場合存在するし、それをいきなり半分の期間でやれみたいな事も難しい。

かたやそれらを全く意識しない立場の場合、それらの資源は基本的に無限に手に入るという前提で考えたりします。とてつもない企画や計画が持ち上がったりして、なんだか勝手に盛り上がってるようだけど、そんなの無理だよって話、正直あります。たとえば通信屋、それも無線屋を名乗る私の目から見ても「そんな無茶な」って話は結構あります。

たとえば基礎技術の話を聞きかじって、来年とかそんな技術を使ったサービスって出来ないの?とか言ってくる人。同じ規格なんだから全然問題なく出来るでしょ?とか言ってくる人。全部の機能を実装して電池の持ち時間は今の倍無いと困るんだよねとか言ってくる人。これくらい簡単にどこでも繋がるようになってないと困るんだよねと言ってくる人。まぁ様々です。

夢は必要です。でもやっぱりそれも程度問題。アイデアを形にするには時間がかかるんです。準備が必要なんです。助走があって初めて飛べるんです。そしてそれには理由があるんです。そこを忘れちゃいけない。

 

で、ぐるっとまわってタイトルの話。そう。問題は需給バランス

今回の震災によって東京電力の給電能力に強烈な影響が出ているわけです。発電能力と需要とのバランスのなかで計画停電という世界に類を見ない高度な手法まで使って需給バランスをとらなくてはいけない状況です。でも発電所なんてそうそう簡単に増やせるものでもありません。準備にも時間がかかります。電力と言うもの自体は陳腐化するものではありません。ただ、溜め込む事が難しいもので、需要にあわせて生産し送り届ける事しかできません。

で、チャンと考えなくてはいけないのが、この電力がある意味無限にあるという前提、というか電力供給に問題が出た場合にどうするかということすら考えていない前提の上に色んなモノが考えられ実装され稼動していると言う事実です。

もちろんお金を払って使ってるんだし、受け取る以上は供給する必要はあるでしょ?という議論張ります。それは当然です。だからこその容量ごとの契約があるわけです。ただ、大抵の場合には契約によって幾らでも出てくるよねという意識はあると思います。しかも常に。なにしろ世界的にも稀に見るほどの高い信頼性をもった日本の電力事情ですから。

でも、何をどういおうが、需給バランスは既に崩れているわけです。

冷静に考えて、たとえば夏のピーク時には発電限界を超える超えないでエライ騒ぎになったりしてきているわけです。昨年の夏の暑さの中で、そのギリギリの戦いが毎日あったわけです。それらをいろんな方法や協力やらのあわせ技で何とか乗り切ってきたわけです。

でも、何をどういおうが、需給バランスは既に崩れているわけです。

別に東京電力の肩を持つわけではありませんが、震災と言う事象がそのバランスを根底から崩してしまいました。今の段階では、たとえば一度電車が止まってしまうと30キロ近い道のりを歩いて帰るしかない帰宅難民な私は、日々計画停電に絡んだ電車の運休に怯えるしかありません。時間によっては以前とは比べ物にならないほどのラッシュに巻き込まれ、オフィスに着いた時点で既に一仕事終えたくらいの達成感と疲労感が体にみなぎる状況です。

じゃぁバランスを取り戻せばいいじゃん?長い目で見るとそういう話です。それはそうです。でも、今日明日に何とかできるというレベルの話ではなく、年単位で物事を考える必要がある話のはずです。

 

じゃぁどうする?

電力に関する素人が持つアイデアなんて、所詮利用する側の話でしかありません。発電や送電は専門家の領域。気にはなりますが、そこは信頼して任せるべき領域。

では利用者側は?たとえばアルと便利だよね系のモノって本当にそうなの?って所を見直すというのは一つのやり方かもしれません。無いと困るってモノも、本当にそうなの?と見つめなおすのもひとつです。正直テレビやPCがなくなると困るんですが、なんかあるような気はします。

因みに既に駅のコンコースにならんでいたサイネージ系のシステムがあらかた電源を切られているわけです。元々そこは壁なり柱なり、あるいはポスターとかが貼られていた場所だったんですが、賑やかしにはなっていた。でも、まぁ無くても問題ないわけです。スポンサーとしてそういう場所を使っていたところも、実はそれだけをやっているわけではないから別に代替手段はあるわけです。っていうか、そもそもそれが無い時代にも戻れる。

そんなところを少しずつ、身の回りから仕事の環境の中、仕事の内容などなど、全部を見直さなくてはいけない状況であるはずだと思うんです。否応ナシに。今すぐに。そしてずっと。

 

因みに電力が足りないんだから昔に戻るべきだとか、経済体制がこんなんだから駄目なんだみたいな話ではありません。オール電化とかプラグインハイブリッドなんて駄目なんだよとかも言いません。あるいは身の丈にあったモノにするべきだという縮小均衡論でもありません。ただ、状況は間違いなく変わったと思うんです。電力供給能力に問題があるのは既にみんなわかっている。星の数ほどある電気機器はそれを必要としているし、発電能力の限界までを食いつぶすまでになっていたそれらが求めるものが確実に足りないんです。今だけではなく、この先も当分は。

冷静に考えたとき、電力供給の部分だけから考えると今年の夏が冷夏である事を祈らないといけないのかもしれません。当然今と同じような、あるいはもっと強烈な制約が必要とされるかもしれません。備えよ常には私の事実上の座右の銘となりつつありますが、今の事態や対応に怒り狂うのではなく、この先どうするの?っていうことを考え始めるべきだと思います。

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